イタリア近現代彫刻受容小史(2)
――争点としてのメダルド・ロッソ



 イタリア近代彫刻の起源を考えるとき、必ずと言ってよいほど筆頭に挙がる彫刻家がいる。彫刻の印象主義者と謳われたメダルド・ロッソ(1858-1928)だ。西洋近代彫刻の始祖としてはフランスのオーギュスト・ロダンの方が一般には知られているが、ロッソが未来派をはじめ後続の作家たちに与えた影響は大きく、イタリア近現代彫刻史の記述がロッソから始められることも少なくない。
 ロッソの彫刻は絵画のように一方向から眺められることを想定した浅い空間表現を特徴とする。よく言われる図式ではあるが、ロダンの彫刻を触覚的彫刻とするならば、ロッソは視覚的彫刻と分類できよう。また、彼の作品が彫刻の印象主義と呼ばれたのは、光と影のなかでうつろう形態を明確な輪郭線を持たないラフな量塊として捉えたためだ。ほとんどレリーフ的な浅い空間に人物の頭部が溶け込んだ《この子を見よ》(1906-07)、抽象彫刻と言ってよいほどに形態を単純化した《庭園の会話》(1896)などを見ると、同時代の表現と比べてロッソがいかに先鋭的であったかが伝わってくる。
 ロッソが生涯で手掛けた主題は40種と限定されている。ただし、同一主題を石膏、ワックス、ブロンズなど様々な素材で試し、つくるたびに原型にアレンジを加えて作品タイトルも変えるなど、そのヴァリアント制作は特殊かつ多様な展開をもたらすものだった。他方、ロッソは世紀末の退廃的な空気を主題に反映し、病気の子どもや貧しい労働者など社会的弱者とされる存在に眼差しを注いだ。節目となる時代に身を置いて文学的なメランコリーの感情と造形上の革新性を同時に追求した彫刻家。あるいは20世紀初頭にミラノからパリに移住してイタリア-フランスの2つの文化的風土を呼吸した越境の芸術家。ロッソを語るための切り口はいくつも準備されているように思われる。
 だが、残念なことに日本では、ロッソを本格的に紹介する展覧会や言説がいまだ十分に展開されていない。イタリア近代美術、もしくは近代彫刻をテーマとする企画展で数点の作品が散発的に紹介されるケースがほとんどである。具体例としてロッソ作品を紹介した目ぼしい展覧会をいくつか挙げよう。1972年の「現代イタリア彫刻の全貌展」(東武百貨店ほか/彫刻1点)、1972年の「近代イタリア美術の巨匠たち ジャンニ・マッティオーリ・コレクションより」(東京国立近代美術館ほか/彫刻2点)、1979年の「近代イタリア美術と日本 作家の交流をめぐって」(国立国際美術館/彫刻2点)、1980年の「イタリア美術の一世紀展 1880-1980」(和歌山県立近代美術館ほか/《この子を見よ》《庭園の会話》など彫刻5点)、1988年の「20世紀イタリア具象彫刻展 : イタリアからのメッセージ 創造のダイナミズム」(岐阜県美術館ほか/鎌倉画廊や佐谷画廊の所蔵品含む彫刻6点、素描2点)。近年では2001年の「イタリア彫刻の20世紀」(横浜美術館ほか/彫刻2点)、同年の「近代彫刻―オブジェの時代展」(横浜美術館/豊田市美術館所蔵の《門番の女》、横浜美術館所蔵の《ユダヤの少年》など彫刻4点)、2006年の「ロダンの系譜」(姫路市立美術館ほか/彫刻1点)、2005年の「ミラノ展」(千葉市美術館ほか/彫刻1点)等々。
 この間の特筆すべき出来事としては、箱根の彫刻の森美術館が14点ものロッソ作品をコレクションしたことが挙げられる。同館は1991年の「知られざる巨匠 メダルド・ロッソ展」でこれらのコレクションを公開したのち、常設展示として「ロッソ・ルーム」を開室している。現在、日本でまとまった数のコレクションを観ることができるのは、この「ロッソ・ルーム」のみである。
 このように振り返ると、ロッソは確かに広く知られた彫刻家でこそないが、イタリア20世紀美術や近代彫刻を取り上げる展覧会では時代の結節点を示す存在として扱われ、戦後に少しずつその重要性が認知されていった印象を受ける。
 ただ、興味深いことに、日本におけるメダルド・ロッソ受容史の起点は実はもっとはやい時代に始まっていた[註1]。大正9年、『美術の秋』(12月15日発行)に掲載された、有島生馬による「メダルド・ロッソの研究」がそれだ。有島の記事は、のちに美術評論家の中村傳三郎が「六十年後の今日でも空前絶後というべき唯一の貴重な研究成果」(「メダルド・ロッソ 2つのR」、211頁)と振り返るほどに、戦前に行われたものとしては例外的な紹介であった。本文中で有島は、パリ留学時にロッソ作品に出会ったときの衝撃を次のように語る。「メダルド・ロツソといふ彫刻家の存在すら知らなかつた私は巴里サロンの一隅で小さな石塊、訳の分らないやうな蝋形、或は石膏の一握が、偶然目に留り不思議にも足を停めさせるのに驚いた」(344頁)。しかも、この記事は有島のロッソ体験を報告するだけには終わらない。ロッソの彫刻家としての歩みを略述するほか、ロッソ自身が残した文章『彫刻に於ける印象主義』を一部引用するなど、内容的にも申し分のない紹介記事であった。記事の末尾では、「ロッソは誰れのにも似ない彫刻を創るに到つた、のみならずそれは彫刻にも似てはゐなくなつた。女性の顔を通じて彼は或る藝術の頂上に触れてゐる。」(353頁)といった素直な称賛も見られる。
 有島の紹介記事からしばらくの間、ロッソ受容史のなかで取り上げるべき目ぼしい出来事はなく、言説の流れはしばらく途絶えてしまう。美術雑誌に再びロッソの名前が主だってあらわれるのは、戦後になってようやく、『三彩』1966年9月号における美術評論家・坂崎乙郎の記事「ロッソ 抽象の源流を探る17」でのことだった。坂崎はまずロダンとの比較からロッソを論じ、その仕事を「眼の触覚性を擦過ではなく、浸透によって持続させようとする試み」(49頁)と位置づける。さらに、具象と抽象のはざまで揺れ動く彫刻としてその特性を評価する。「初期から一貫して人間に愛情を注いだロッソの眼が、具象と抽象を分つギリギリの線上で、ためらいがちに像のまわりをめぐっている。しかも、何という「移ろい易さ」、何という純化されたマッスであろう」(51頁)。
 さらに時代を下ると、先にも挙げた中村傳三郎による「メダルド・ロッソ 2つのR」が1980年6月号の『美術手帖』に掲載される。もちろん、「2つのR」というタイトルはロッソ(Rosso)とロダン(Rodin)のことを指している。戦後30年以上が経過し、展覧会などでロッソを散発的に紹介する機会が増えてきた頃とはいえ、ロダンとの比較からロッソ論を書き出す定型はこの時分にも克服できていないようだ。ただし、中村の論はロダンに比べてロッソを劣位に置くわけでもなく、むしろそのような見解を覆すような独創性をロッソに認めて戸惑いを覚えるところから始まっている。「私もロッソを「イタリアのロダン」というぐらいに思っていた。それはちょうど、わが荻原守衛を「日本のロダン」というのと同じように…。」(211頁)。中村は1972年に、ローマ国立近代美術館のロッソのみを集めた展示室でまとまった数の作品を実見していたのだ。「(…)それまであまり馴染んだことのない異様な材質感といい、時には気味悪さを覚える色彩感といい、それは観る者各自の感覚次第とはいえ、そんな初見の感銘が特に先行したことを今想起するのである」(211頁)。「異様」で「気味悪さ」を感じるほどの感銘。実物に接した者ならではの生理的な反応が伝わってくる生々しいレポートである。
 中村の記事はロッソの簡易な評伝としてもよくまとまっているのだが、先鋭的なロッソ観の提示には到っておらず、やや物足りなさが残る。飛び石的な紹介が続き、どうしても同じような切り口が反復されてしまうなかで、注目すべきロッソ論争が起こったのは、それから約10年後の1989年だった。この年の3月28日、神奈川県の鎌倉画廊にてシンポジウム「メダルド・ロッソをめぐって」が開催されたのである。
 パネラーは、イタリア美術を専門とする群馬県立近代美術館学芸員の上村清雄、自他共に認める「ロッソ狂い」の彫刻家・黒川弘毅、美術評論家で『現代彫刻』(1982年)の著者でもある中原佑介、ロッソへの関心は低いが実作者としての立場から招かれた彫刻家の堀内正和、フランス留学を終えたばかりの美術批評家・画家の松浦寿夫。司会はイタリア美術研究でも知られる美術評論家の峯村敏明が務めた。
 このシンポジウムの肝は、ロッソにアクチュアリティを認めるか否かでパネラーの意見が分かれた点にあるだろう。ロッソの彫刻に「新しさ」はあるのか、それとも時代の行き詰まり感を体現する作家に過ぎないのか。この論点をめぐってパネラーはそれぞれの見解を示す。たとえば峯村は「(…)ロッソはほとんど終生、子どもとか病める人とか、そういうものばっかり造形していたけれども、物質の粒子状態のエナジーとして出てくるものへの関心のほうが、むしろ私には強い。だから、どちらかといえばアルテ・ポーヴェラなんかにポーンと飛び離れた類縁を僕は感じるんです」(「メダルド・ロッソをめぐって」、38頁)と独創的な見解を提示し、ロッソをイタリア現代美術の文脈に大胆に接続している。黒川は「歴史的な危機的状態というか、ある種のネガティブな状況というか、それをロッソは一番端的に示し得た」としつつ、むしろそこに既成のジャンルとしての彫刻を乗り越える手がかりを積極的に見出そうとする。中原は印象派とロッソの関連や、ロッソのスタイルのユニークさには関心を持ちつつも、一歩引いた視点からこの彫刻家を眺めている。堀内はロッソへの関心が薄くアクチュアリティなどは認めていない様子であり、松浦も同様、ロッソにアクチュアリティはないと述べこそすれ、ヴァリアント制作のことを指してか、「生涯くりかえした作業」に対しては関心を示し、「解決しないことを示した」ことがロッソの偉大さなのだと評価する。
 パネラーの意見が見事に分かれるなか、上村の提示したロッソ観は、それまでの言説にはない彫刻家の一面を明らかにした点において非常に興味深い。上村いわく、「ロッソというのは自分の作品がどういうふうに見られるのかということを非常に意識した彫刻家」(5頁)である。そして、ロッソの自己演出的態度は、サロン・ドートンヌでの展示の際、自作と関連のある他作家の作品図版を一緒に壁に掛けたり、アトリエの写真を撮るときに自分を神話化してみせるような撮り方を行ったことなどにあらわれているという。このような上村の指摘は、歴史と自作についてのメタ的視点を持った彫刻家、という新たなロッソ像を浮かび上がらせる。おそらく当時、ロッソが自作を写真で撮っていたこと自体がまだあまり知られていなかったであろうことを考慮すると、上村の指摘がもたらしたものは大きかったのではないだろうか。
 ロッソは自作をただ撮影するだけでなく、写真の表面に顔料をほどこしたり、コラージュ的な処理を行うなどの細工を行った[註2] 。移ろう光と影を捉えようとした、どこか脆く儚い印象の漂う自作を、写真というまた別のメディアの時空に封じ込めることにはどんな意図があったのだろうか。謎は深まるばかりである。ロッソの作品が単なる結節点ではなく「争点」となるには、まだ多くの検証が必要なのかもしれない。


[註1]鎌倉画廊のシンポジウム記録集「メダルド・ロッソをめぐって」では、有島生馬の記事よりも早い時期に、彫刻家の新海竹太郎による紹介記事(明治44年1月8日付『朝日新聞』)があったとされている。
[註2] ロッソの写真については以下のweb記事でも言及されている。池野絢子「空間においては、いかなるものも物質的ではありえない」(『アネモメトリ―風の手帖』「週変わりコラム、リレーコラム 風を描く(154)」)。<http://magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp/essay/843/>

[参考資料]
『有島生馬全集』第3巻、日本図書センター、1997年。
『シンポジウム メダルド・ロッソをめぐって』鎌倉画廊、1990年。

2016/12/12


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