エンリコ・カステラーニ追悼




 エンリコ・カステラーニが2017年12月1日に死去した。享年87歳。1950年代、キャンバスの木枠に釘を打って麻布の表面を波立たせる「表面」シリーズで時代の寵児となってから、カステラーニは一貫して同手法による平面作品を手掛けてきた。変わらぬスタイルゆえだろうか、この画家にはどうしても1950~60年代の空気を体現した作家というイメージがつきまとう。雑誌『アジムート』を共に立ち上げた盟友ピエロ・マンゾーニ(1933~63)のショッキングな早逝との対比も手伝って、余計にカステラーニの「意外な長寿」の印象が強められてしまうのかもしれない。今回の訃報に接し、むしろカステラーニが2010年代の後半まで存命だったという事実に驚きを禁じえなかった人も決して少なくはないだろう。

 1930年、イタリア北部のカステルマッサで技術士の父のもとに生まれたカステラーニは、はじめベルギーの王立美術アカデミーで絵画と彫刻を学び、その後ラ・カンブル美術学校で美術と建築を勉強しなおす。1956年ミラノに移住。時代はちょうどフランスを中心地として一大旋風を巻き起こしたアンフォルメルがイタリアにも伝わって当地風の潮流を生み出していた頃だった。だが、カステラーニが画家の身振りを強調するアンフォルメル風の絵画を手掛けたのはごく初期(1950年代)のみで、以降はアンフォルメルが席巻する美術界に抵抗するかのごとく、主観や情緒を排して絵画の「表面」の効果を冷徹に追求するスタイルを打ち出した。「表面」シリーズの開始である。キャンバスに張られた布地がテント状の反復模様をつくるからくりは、キャンバスの裏側を確認するとすぐに納得できる。キャンバス枠に橋渡しした何本もの木桁に釘を打ちつけ、釘の頭によって裏側から布地を押し出しているのだ。テント状の突起は釘の配置によってバリエーションを変えながら律動を刻み、鑑賞者の視点の移動によって光を移ろわせる。手法こそ代わり映えしないが、要素の微細な変化によってまったく異なる豊饒な光の効果が得られることをカステラーニは確信していた。
 カステラーニはアンフォルメルでもアメリカの抽象表現主義でもなくフォンタナの仕事に強い感銘を受けていた。たとえば2016年の『Flash Art』のインタビューでも「フォンタンはいつも私たちの規範だった」と語っている。1950年代の後半と言えば、ちょうどフォンタナがナイフでキャンバスに切れ目を入れる「切り裂き」シリーズで伝統的な絵画の二次元性の超克を試みていた頃だ。伝統的な絵画観の超克はカステラーニにとっても喫緊の課題となる。絵画の表面性をいかに扱うか、また純粋な光や色彩の効果をいかに追求するか、こうした問題系に対する関心はドイツのデュッセルドルフで活動する「ゼロ」グループとも軌を一にするものだった。

 1950年代におけるカステラーニのもうひとつの重要な活動は、マンゾーニと共に前衛雑誌『アジムート』(Azimuth)を創刊し、同名の画廊(Azimut)をミラノに開設したことだ(ちなみに雑誌『アジムート』の綴りは末尾に「h」があるのに対し、ギャラリーにはない)。1959年に創刊した雑誌『アジムート』は翌60年刊行の2号をもってすぐに廃刊となってしまうが、ジッロ・ドルフレス、ウド・クルターマンをはじめ錚々たる執筆陣が批評や最新の美術理論を書き、フォンタナ、ボナルーミ、イヴ・クライン、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグらの作品図版を紹介するなど、短命ながらに密度の濃い内容を誇った。また画廊「アジムート」では、カステラーニやマンゾーニの個展はもちろんのこと、グループ・ゼロのメンバーをはじめとする同時代の動向を伝えたのだった。
 1965年、オプ・アートを総括する展覧会として注目を浴びた「応答する眼」展(ニューヨーク近代美術館)に、カステラーニの作品も出品された。この出来事が象徴するように、カステラーニの作品は様々な文脈に位置づけられる射程の広さを持っていた。たとえばドナルド・ジャッドは、カステラーニを「ミニマリズムの父」として讃えている。1964年と66年にはヴェネツィア・ビエンナーレにも出品。1950年代から60年代に渡って、カステラーニの作品は既に国際的な評価を得ていたと言ってよいだろう。
 カステラーニは政治と芸術を切り離して考えることを信条とし、「芸術はメタファーとしての機能を持つときのみ政治的主題を扱うことができる」と考えていた。1970年代、政治的理由から制作を一時的に中断。制作を再開した後も巨匠としての地位を確立し、2001年にプラダ財団、2005年にプーシキン美術館で大回顧展を開催している。

 さて、上記に連ねたような経歴が、訃報の際に回顧されるカステラーニの「穏当な」プロフィールである。ただ、訃報記事というものは、人生を見栄えのいい「物語」に成形するため枝葉末節を刈り取ってしまう傾向がある。そこで本稿では、日本におけるカステラーニ受容の歴史を手短に振り返っておくことで、「穏当な」画家像とは少し異なる別の視軸の導入を試みたい。
 日本におけるカステラーニの紹介はかなり早い時期から行われている。1968年には東京画廊で個展を開催して新作10点を展示。個展に際して制作されたリーフレットは中原佑介が寄稿した。そのテキストを少し引用しよう。「カステラーニは限定されない空間構造をつくりだすことで、同じように絵画の有限性を超えようとした。規則的な起伏は空間の連続性を示し、かつ、無限の反復を示している。その無限は暗示であるけれども、空間内の一点の振動が、減衰することなく伝播してゆくのに似て、視覚のなかで終りのない共鳴現象をよびおこすのである。」(『エンリコ・カステラーニ』、東京画廊、1968年)。
 東京画廊での個展を皮切りにギャラリーでの個展は断続的に開催された。1977年自由が丘画廊で版画作品を中心とする個展、81年に銀座の康ギャラリーで個展、1988年には大阪の児玉画廊で近作展、そして1991年にも鎌倉画廊で個展を開催。いずれも小規模ではあるが、ひとりのイタリア人作家の動向が断続的であれ紹介されてきた貴重なケースであることは間違いない。日本との関係が深かったこともあってか、2012年には高松宮殿下記念世界文化賞の絵画部門も受賞している。
 ここまで駆け足でカステラーニの日本における紹介をごく簡単に振り返ってみたが、とりわけ注目すべき動向として挙げられるのは、1976年にイタリア文化会館で開催された「七人のイタリア作家と七人の日本作家 : 新しい認識への方法・美術の今日」展に出品したことである。これはイタリア人作家と日本人作家を2期に分けて紹介するという企画展で、カステラーニ、キアーリ、イノチェンテ、ロンバルド、モケッティ、パオリーニ、ヴァッカーリ、藤原和通、池田龍雄、小本章、松沢宥、長澤英俊、菅木志雄、高松次郎という総勢14名の作家が参加した。興味深いのは、ここでカステラーニが《時の壁》というタイトルのインスタレーションの展示を行ったことだ。
 《時の壁》はもともと、1968年にローマのラ・タルタルーガ画廊で開催された「展覧会の劇場」という連続展で発表された作品である。「展覧会の劇場」は、美術家だけでなく音楽家、詩人ら20人の作家が一夜限りの展覧会を20日間に渡って開催するという実験的な試みであった。ではカステラーニの《時の壁》はどのような作品であったのか。「七人のイタリア作家と七人の日本作家」のカタログをひもとくと、出品作家の経歴紹介のページに大まかな作品紹介が残されている。「水平面上に等距離で一列に並べられた7つのメトロノームが同時に動き出す。しかしそれぞれのメトロノームの動きは、一定の進行速度でゆっくりとしたものから早いものへと段階をちがえてセットされている。そして今度は速度の早いメトロノームの方から順に次々と停止していく」(「七人のイタリア作家と七人の日本作家」、1976年)。
 どうやら「七人のイタリア作家と七人の日本作家」展には、「時」をテーマとする作品が集められたようだ。カタログ序文で松沢宥はこう述べる。「ここにたち現れている7人(イタリア側を加えて14人)の「時」よりの使者(たち)を見よ。まことに多様な方法と用具によって「時」の新しい認識を陳述せんために遣わされ、示し、たわむれ、計り、しつらえ、為しているとしてもよいだろう」。カステラーニがいつもの平面作品ではなく、一夜限りのイベントのために制作したインスタレーション《時の壁》を同展に再現したのは、展覧会全体の「時」というテーマを意識してのことだったのかもしれない。カステラーニの経歴のなかではめずらしいインスタレーションが展示されたという意味でも、同展は興味深い展覧会である。
 日本と縁の深かったカステラーニだが、日本国内ではいまだ美術館クラスの回顧展は行われていない。もし回顧展が開催される機会があるならば、「表面」シリーズだけでなく《時の壁》をはじめとするインスタレーションの紹介も是非とも行われてほしい。一面的な理解に終始してしまいがちな作家だけに、「穏当な」画家像とは異なる新たな視点が俟たれる。


[参考ウェブサイト]
Enrico Castellani in Flash Art〈http://www.flashartonline.it/article/enrico-castellani/〉


2018/05/15



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