プログラム・アートの前夜に
――グルッポNの2つの「展覧会」



 1960年12月、パドヴァ。とある前衛美術家たちのスタジオでひとつの挑発的な試みが行われようとしていた。この試みを何と名付け、いかなるカテゴリーに分類すればよいのか。それは確かにひとつの「展覧会」なのだが、我々はこの「展覧会」を、旧来的な枠組みにおける「展覧会」とはまったく別物の「イベント」として理解せねばならないだろう。
 まず、会場となるスタジオを訪れた人々は、かたく閉ざされた扉の前で成す術もなく立ち尽くすほかなかった。スタジオの扉には手書きの文字で、「Nessuno `e invitato a intervenire(誰も中に入ることができない)」と書き殴られている。そして文言通り、観客は誰ひとりとして扉を開け中に入ることを許されなかった。展示物は何もなし、室内は空っぽ。これこそが、1959年に結成されたばかりの美術家集団「グルッポN」の目論んだ3日間限りの展覧会の内実のすべてであった。
 彼らが自分たちの拠点として「スタジオN」をオープンしたのは件の展覧会に先駆けるわずか一か月前のこと。スタジオは以前の借主が公認の売春宿として使っていた部屋だったため相場より廉価で借りることができたようだ。イタリアでは売春宿のことを「casa chiusa(閉ざされた家)」と呼ぶことがあるが、前衛美術家らしいアイロニカルな態度で「mostra chiusa(閉ざされた展覧会)」を仕掛けたNのメンバーたちは、いわば「芸術家と売春婦の境界線」を取り払い、自分たちを社会に抗する敵対者としてのポジションとして演出したのである[註1]。
 「作品をいっさい展示しない空っぽの部屋による展覧会」と言えば、「誰も中に入ることができない」に先駆ける1958年、ヌーヴォー・レアリスムの旗手イヴ・クラインがパリのアイリス・クレール画廊において実施した「第一物質の状態における感性を絵画的感性へと安定させる特殊化」展(通称「空虚」展)を真っ先に挙げることができる。クラインは外側の扉や窓は「インターナショナル・クライン・ブルー」と呼ばれる特許を取得した独自開発の青色顔料で、室内は白一色で塗り直し、訪問者に青色のカクテルを振る舞うというパフォーマンスを行ったのだった。
 「空虚」展について子細な分析を施した神地伸充によれば、クラインが不在の部屋によって実現しようとしたのは、非物質性への到達を志向する「絵画的感性」であった[註2]。不在の作品を提示するという逆説的身振りは作品を成立させる基盤としての画廊空間を際立たせるがゆえに、制度批判として機能するものと理解されるのだが、その一方で、「空間そのものに対する感性的な経験を生起させうる」(39頁)。「翻って言えば、何も展示しないことによってこの「空虚」の部屋は、あらゆる事物の到来する可能性を提示し続けるのである」(39頁)。かくして画廊は「創造過程の始まりの場」「あらゆる作品が産出されうるような、最大の潜在性の謂」(40頁)としてのアトリエに類比されるものとなる。
 対してNによる「誰も中に入ることができない」はどうだろうか。展示空間とスタジオの境界線を限りなく溶解させたという意味では確かにクラインの「空虚」展を想起させるところがあるのだが、訪問者の侵入を完全に拒むという身振りは感性的経験の喚起も制度批判も目的としていないように思われる。むしろ「誰も中に入ることができない」のシニカルなしつらいは芸術の威光や特権性を剥ぎ取るダダ的振る舞いに近い。そしておそらくここには、いくらかのマルセル・デュシャン的諧謔精神も含まれているのではないだろうか(そういえば、「閉ざされた扉の系譜」として真っ先に挙げられるべき芸術作品は、1946~66年のあいだひっそりと秘密裏に制作されたデュシャンの《遺作》であると言えるかもしれない)。
 ところでイタリア20世紀美術に詳しい人であれば、ここでふと基本的な情報に立ち戻りたくなることだろう。グルッポNといえば、1950年代末から60年代にかけて活躍した、プログラム・アート、キネティック・アート、オプ・アート、シネヴィジュアル・アートの実験集団ではなかったか?と。
 そう、確かにグルッポNは、キネティック、オプ的傾向の作品を手掛けた集団として一般に認知されている。美術史上でよく引き合いに出されるのは、同時期にミラノで活動していたキネティック・アートの集団グルッポTである。工業製品を積極的に制作に取り込んだTと同様、Nもまた、金属板、プレクシガラス、モーターといった新素材を用いてグラフィカルな幾何学的構造をもつ絵画・立体作品を次々と生み出した。アルベルト・ビアージ、エンニオ・キッジョ、トーニ・コスタ、エドアルド・ランディ、マンフレド・マッシローニといった主要メンバーたちの作品を通覧すれば、「誰も中に入ることができない」のような展覧会は、グループがごく初期に行った偶発的なイベントのひとつに過ぎないと即座にわかるのである。
 「誰も中に入ることができない」は所詮、やがては形骸化するダダ的身振りのテンポラルな発現、その場で面白がられてすぐに消費されてしまう一発屋的アイデアに過ぎなかったかもしれない。それでも、若気の至りとも受け取られかねない「単発的イベント」を本稿であえて取り上げたのは、たとえ一過性の身振りであっても、時代の空気、そしてときには思いもかけない影響関係をここに読み取ることができるからである。
 じつはもうひとつ、グルッポNが初期に行ったダダ的身振りのイベントが存在する。1961年6月8日、Nは「個人崇拝と芸術創造の神話に抗して」と題した一日限りの展覧会を組織した。これは、メンバーの知人であるジョヴァンニ・ゾルゾーネなる人物がパン職人に扮していろんなタイプのパンをつくり、ブルーノ・ムナーリの《役に立たない機械》のように紐で天井から吊るして展示するという内容の展覧会であった。
 展覧会のインビテーションカードには次のようなステイトメントが書かれていたという。
「これらの作品は芸術的なものと考えられるだろう。ここに具体化されたものは唯美派による美についての考えなどによっては定義されない。それらは質的な部分を洗練させる内的必然性から生まれたのだ(…)。これらの作品は個人主義の内的世界はいっさい表現しないし、社会的な機能のいっさいを放免することもない。N」。
 さまざまな形態のパンは「芸術作品」としてリプレゼントされることで審美的評価の対象と成り得る(ように見せかけられる)。しかも、この新しい定義による芸術は、前世代のアンフォルメルや表現主義的作品のような内面世界の表出、独創性の証とはいっさい無縁であることだろう。芸術作品は日常の次元へと下降し、ある種のエリーティズムに支えられていたその価値を失墜させる。「食べられる」芸術作品を展示して芸術と非芸術の境界を問うたこの展覧会は、ささやかな規模ながら、イタリアの著名な日刊紙『コッリエーレ・デッラ・セーラ』の一面にも取り上げられて反響を呼んだ。
 しかも反応は新聞評だけにとどまらなかった。ミラノを拠点に世界的な活躍をしていたピエロ・マンゾーニがこの「パンの展覧会」に刺激を受け、1957年から開始していた「アクローム」シリーズにおいてパンを石膏で塗り固めたヴァージョンを同展のオマージュとして提示したのである。
 Nがキネティック、オプ、プログラム・アートの潮流に本格的に移行する前夜に、前衛的・遊戯的なイベントを組織してマンゾーニのような反芸術的資質を持った美術家に影響を与えていたという事実は特筆に値する。戦後のイタリアには――異端の天才マンゾーニを除けば――、ネオダダ的、反芸術的作品を展開する作家がほとんど見られなかったのが実情だが、Nがもしこの手の「展覧会/イベント」を断続的に行っていれば、イタリア独自のネオダダ・反芸術的傾向がイタリア北部あたりを中心として形成されていた可能性も十分に考え得るだろう。
 改めて思い起こすに、1960年代初頭は、前衛美術の小集団が国・地域を超えて活発に交流した時代でもあった。グルッポT、ピエロ・マンゾーニとエンリコ・カステラーニの「アジムート」、デュッセルドルフのゼロ、オランダのヌル。国際的な相互交流を検証することで思いもかけない影響関係を照らし出すことが美術史の課題のひとつであるとするならば、パドヴァという決して美術の中心地ではない都市で行われたグルッポNの小さな挑発的試みを検証する作業も、決して無益には終わらないはずだ。
 1950年代末から60年代初頭にかけて、前衛美術家たちが標榜したのは「新しい芸術」であった。芸術が「新しさ」を獲得するためには、古い慣習や価値観をいったん無へと還す作業が必要となる。おそらくNは、「誰も中に入ることができない」「個人崇拝と芸術創造の神話に抗して」という2つの「展覧会/イベント」によって、新しい芸術を到来させるための更地を準備したのではないだろうか。
 戦後イタリアの奇跡の高度経済成長と科学技術の進展を背景に、時代を見据えた彼らの活動はこれ以降、本格的に始まることになる。


[註1]以下のカタログを参照。Alberto Biasi opera dal 1959 al 2013, galleria allegra ravizza, 2013.
[註2]以下の論文を参照。神地延充「「絵画的感性」としての空虚 : イヴ・クライン《原料状態の感性を安定した絵画的感性に特殊化する》展について」、『カリスタ : 美学・藝術論研究』(22)、美学・藝術論研究会、2015年。



2018/10/10



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