「失題」



美術館からの帰り道、ミュージアムショップで買った飴をひとつぶ口の中に放り込み、わたしはルソーのことを考えていた。舌の上に広がる熱いものが自分の唾液なのか溶けた飴なのか境界らしい境界があるわけもなく、口中で少しずつ小さくなってゆく飴のかたちにだけ意識を集中させていると、閑静な世田谷の住宅街がしだいに煙たくなり、色素を失って、カーテン越しに見る景色のようによそよそしいものへと転じていった。気がつくと辺り一帯は分厚い靄に包まれ、わたしは駅までの距離も測れなければここが何処なのかもわからない完全な迷子となっていた。

飴を舐めながら途方に暮れているとようやく靄が晴れ、前方に直径1.5センチほどの細長い棒があらわれた。表面が妖しく安っぽいサワーブルーの蛍光色に染められているので、たとえ棒が夜の闇に沈められても見失うことだけはないだろう。しかし、長いこと無彩色の靄に視界を遮られていたわたしには刺激が強すぎる色である。帽子の庇がわりに手のひらを額の位置で構え、思わず目を細めてしまった。目を細めただけなのにしかめ面と思われるのだけは避けたかった。なぜならば不快感情を露わにしたと誤解されるかもしれないからだ。けれど相手は無生物の棒なのだからそう気にすることはないかもしれない。おまけにしがない一工場員であるわたしは、この棒を2センチ弱の切片に切り分けていくという作業を一日12時間労働でこなさなければならないのだった。まな板の上に棒を寝かせてみたものの、棒の長さはまな板の大きさを遥かに越えて地平線の彼方にまで伸びており、末端を肉眼で確認することも出来ない。幅広のナタを振り上げては下ろし、振り上げては下ろし、ロボットのように決められた動作を続けていく。不器用なために切り口を均一に揃えられないわたしは申し訳ない気持ちで一杯だったが、ナタを降り下ろすたびに棒の切断面から立派な口髭を蓄えた紳士の顔があらわれるので、常に気持ちを新規まきなおしの状態に保つことが出来た。棒は、棒はと書いてきたけれども、棒だと思っていたものは実は金太郎飴で、金太郎のかわりにかたどってあるのはフリュマンス・ビッシュ氏というフランスの将校である。ビッシュ氏はいつも同じ顔であらわれるのだが、なにしろ切り分ける当のわたしが不器用なので顔のパーツが局部的に歪んでしまうこともあり、そんなときのビッシュ氏は今にも泣き出す一歩手前といった見ているこちらまで辛くなるような表情をする。しかしよく見ればその表情は人を小馬鹿にするときの挑発的なお道化顔にも通じていて、泣いている人間とふざけている人間がこんなにも似ていることにわたしは改めて驚かされた。人は悲しい辛い悔しいといった諸感情に導かれて泣き顔に到るのではなく、どんな表情にも対応できるよう顔の筋肉をほぐして来たるべき事態に備えておけば、自分の感情をも自在に操ることができるらしい。ビッシュ氏が泣きそうな顔をしているからといって周囲の同情や憐憫を受けるべき弱い立場にあるわけではない。むしろ、ビッシュ氏の表情に負の感情を呼び覚まされ手痛い心の傷を負ったのはこちらの方だった。このトリックに今更ながら気が付いたわたしは、もともと感情のかけらもないビッシュ氏が憎くて憎くてたまらなくなってきた。ナタを振り下ろす動作にもおのずと荒々しさがこもる。どんなに憎悪をこめて切断しても、飴の中のビッシュ氏には傷ひとつ負わせることが出来ない。それどころか、切れば切るほど憎たらしいビッシュ氏の顔が増殖していく。神経が摩滅するような単純労働のさなかでわたしの憎悪は最高潮に達し、全身の精力を利き腕に集中させてナタを振り下ろすと、ぱかっと真っ平らに割れた飴の中のビッシュ氏は頭部からひとすじの赤いものを垂れ流した。この現象はビッシュ氏が傷ついたということを意味しない。詩人のように透明で無垢なビッシュ氏の感性はわたしの憎悪を濾過器にかけることなく生のままで媒介し、自身の血潮として溢れさせたにすぎないのである。

入り口も出口もない美術館の展示室に閉じ込められたことなんて、夢の中でなら今まで何度も体験している。そんなときはどうせ成す術もないのだから、展示室のソファにゆったりと腰掛けて壁に掛けられた絵をじっと見ることにしている。ちょうどソファの前にあったのがルソーの筆によるフリュマンス・ビッシュ氏の肖像。ビッシュ氏のことを素朴だとかナイーブだとか言って褒め称える人々がいるけれど、そんな形容ではビッシュ氏の秘密をうまく言い当てられた感じがしない。素朴という言葉には鈍臭いものへの揶揄が暗に込められていたはずなのに、それが今ではすっかり肯定的な意味合いに染め上げられていて、しかも大勢の人が平気でその言葉を濫用するのがわたしには気に食わなかった。それに彼の無表情、彼の謙虚さには、何を考えているのか分からない独特の薄気味悪さがある。ビッシュ氏のいる場所へ少しでも近づくべく、果敢にもわたしは絵の中へ入っていくことにした。晴れているのか曇っているのかもわからない、ただ陰鬱であることだけは確かな空の下、荒涼とした昏い大地が続いている。目ぼしいものは何もない。こんな寂れた土地に一人で来てしまったことを激しく後悔していると、小道の向こうから腰にサーベルを下げた軍服姿のビッシュ氏が歩いてくるのが見えた。目測では数十メートル先にいるように見えるのに、枯れ木の一本も生えていないだだっ広い空間のせいでわたしとビッシュ氏との距離をつかむ指標が何もなく、まばたきひとつするたびにビッシュ氏の背丈が巨人のようにも小人のようにも思えた。こんな錯覚は振りほどきたいと思い、かたく目をつむってから思い切り見開くと、ビッシュ氏はいつのまにかわたしの目の前に大木のように立ちはだかっていた。わたしが天地創造の神であるならばこんなに無骨な人体はつくらないであろうと断言できるほど、ビッシュ氏の佇まいは朴訥としていた。そのくせまなざしは異様に真剣である。さらにビッシュ氏の身体は地面に影を落としていなかったので、わたしは嫌なものを見てしまったと思って衝動的に目を逸らしてしまった。何か様子がおかしい。絵の中には軍服姿のビッシュ氏だけではなく、婦人用のドレスを着込んだ者やパレットを片手に持った画家らしい格好の者も居る。子どもも大人も関係なく輪をつくり、祭典前の広場のように大勢の人が集まっている。ただし、全員とも首から上はビッシュ氏の顔にすげ替えられているのだ。わたしはビッシュ氏の人垣に完全に包囲されていた。皆がてんでばらばらに人間の言葉ではない言葉で喋り出すのを聞きながら、わたしは心底恐怖に怯え、足下の大地が稲妻形にひび割れて崩れて行くのを感じていた。落ちる、と短く叫んだ瞬間に、わたしは口の中の飴の感触を突如として思い出した。

わたしが居るのはいつもの世田谷の住宅街だった。靴底からはアスファルトの道路の確かな抵抗感が伝わってくる。あれほど長い間ビッシュ氏に囲まれていたから、自分の顔までビッシュ氏と同じになっていないかとても心配だ。鞄から手鏡を取り出し自分の顔を覗き込む。鏡の前で舌先を突き出し、ほとんど破片の小ささになった飴を確認してみる。ドロドロに溶けて歪んでわたしを責めるような表情をしていたらどうしよう。わたしの心配とは裏腹に、飴は肌色ピンク色チョコレートブラウンがわずかに残っているだけの無害で大人しい色片に変化(へんげ)していた。それでも油断はできない。それぞれの色片は、かつて肌であり口であり髭であったときの名残りを十分に留めている。わたしが目を離した隙に、ビッシュ氏の顔のパーツであることを主張しはじめるかもしれない。たっぷりの唾液をからめて舌の上で転がし、一刻もはやくこの飴を溶かして消してしまいたい。飴はおせんべいやケーキと違って咀嚼の検閲・消化の儀礼を受けずに済むお菓子である。胃の中に送り込まれることがないぶん、口中で舐め溶かして証拠隠滅することが可能なお菓子である。はやく、一刻もはやく。焦れば焦るほど飴の異物感は増し、舌先を軽く引っ掻いて苛立ちを倍増させる。いまわたしは自分の輪郭が周囲の空気に舐め削られてゆくのを感じている。口の中で少しずつなくなってゆくのは、ビッシュ氏でありルソーでありまたわたしの顔でもあったのだ。

2006/11/18


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