シュルレアリスムとお付き合いするには――『性に関する探究』についての覚え書
シュルレアリストたちは、霊媒術、言語ゲーム、複数の主体が参加するオートマティスムのデッサン、アンケートなど、集団による実験を数多く行った。場を整備し、中心的役割を担ったのは、たいていの場合がブルトンである。 「客観的偶然」の到来を歓迎し、無意識下にある欲望を解放する契機を探り続けることがシュルレアリスムの基本的態度であるとするならば、個人による制御を越えたところで物事が進行せざるを得ない集団実験こそ、シュルレアリスティックな経験が熾烈に開花する場であった。とはいえ、シュルレアリスムの思想と歴史は、決してひとつの理念に向かって整合的・求心的に束ねられるものではないし、ブルトンひとりの掌の上で転がされるような類のものではなかった。しばしばシュルレアリスムは、様々なメンバーが集合と離反を繰り返す「運動体」=「星雲」のイメージで捉えられている。このことを念頭に置きつつ、シュルレアリストたちの実験の内容を探っていく必要がある。
「性に関する探究」は、シュルレアリスムの集団実験の中で最も過激な試みのひとつである。当時行った実験の様子は、ブルトンが遺した討議録の草稿をもとに活字化され、一冊の書物として刊行されている。[*]
ブルトンを中心に、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、イヴ・タンギー、ピエール・ユニック、ジャック・プレヴェール、ボワファール・ジャック=アンドレ等々の面子が集ったこの試みでは、メンバー同士が「性」と「愛」に関する質疑応答を、できるだけ率直に澱みなく続けていくという討論形式が採用されている。質疑の内容は、「愛とは何か」「子供を持つことをどう思うか」といった王道的なものから「初めての性体験はいつか」「女性の体の部分で最もフェティシズムを覚えるのはどこか」といった少々答えにくいものまで、多岐に渡る。討論のテーマにまったく脈絡がないわけではなく、第一回目では「女性が快感に達したのをどうやって確かめるのか」という話題についてだらだらと意見を交わす場面があり、当初から彼らの関心事は、主観を超えたものの判断基準はどこにあるのかという問い、言い換えれば、「他者」と「客観性」の問題にあったのだと推測できる。
実験は、1928年から1932年までの間に、あわせて全12回行われた。一回しか参加しなかったメンバーもいれば、複数回参加している常連メンバーもいる。討論の内容は赤裸々で過激極まるものであり、回を重ねるうちに多少こなれてはくるものの、メンバー間のやりとりからコミュニケーションのズレ齟齬が解消される気配は最後まで見えない。同時に密室の中で単なる猥談ともとれるような内容の議論を「大真面目に」/「ふざけながら」繰り広げていく大人の男たちの姿が浮かび上がり、おかしみを誘う。
回を追ううちに、メンバー各人のキャラクターも浮き彫りになる。実験開始当初、曖昧な照れ隠し表現が目立つメンバーの中で、ブルトンと絶妙な討論のやりとりを披露して周囲を煽動する饒舌ぎみのアラゴン。発言の端々に変態ぶりがいかんなく発揮されているイヴ・タンギー。「今まで何人の女性と関係を持ったか?」との問いに対し「500~1000人」と答えるエリュアールには、やや大袈裟な「演劇的」身振りが感じられるが(別の場面では、「僕の言うことはほとんどが嘘だから」などとのたまったりする)、見方を変えればそれは、自分に求められる役割を演じ切って場を盛り上げようとするサービス精神の旺盛さの証明でもある。 そして特筆すべきは、アンドレ・ブルトンの抜きん出た存在感。強烈な個性がひしめくカオスの場にあって、ブルトンの明晰な知性は、常にシュルレアリスム運動の中心人物としての誇りを崩すことがない。その立ち位置は、したたかな仕掛け人といったところだろうか。相手の言動を逆手に取って虚を突くやり方に非常に長けていて、彼の対話における姿勢が、シュルレアリスム的反抗精神の結実であることがよく分かる。
たとえば、ブルトンは、第3回目の討論の中で、羞恥心というものを次のように定義している。「(…)羞恥心とは、それを感じることのできる高みにまで達してはならない感情だと言おう。そうした気詰まりというのは、何について感じるのであれ、およそ馬鹿げた感情であって、人も知るとおり、そうした感情を昇華することも可能なわけだが、だからといってその感情を認めていいというものでもない。解明しがたいどころか、いつだってごく簡単な性的図式に帰することのできるもので、そんな図式を突き抜けることこそが肝要なのだ。この感情を正当化する口実はただ一つ。人間が、おのれが肉体を持つ存在であることを悟ったときに抱きうる悲哀の気持ちという、キリスト教的なものにほかならない」。西欧社会の根幹にある「キリスト教的なもの」こそ、ブルトンが嫌悪し、攻撃の対象とするものだ。
個人のプライベートな体験や記憶に根ざすような内容の告白を、羞恥心を乗り越えて、大勢の前で吐き出していくことが、ある意味では、自らの「外部(ex-)」に出て行く行為であり、カオスへの突入であり、制度的抑圧からの離脱となる。「性に関する探究」は、「ex-」の経験において他者と出会うための実験なのだ。 しかし、上に挙げたブルトンの発言から察するに、彼の直面する事態は、それほど単純なものではない。ブルトンは、欲望の吐露によってカタルシスに到ることを全面的に支持するわけではなく、また、「羞恥心」という名目のもとに性愛の経験を回収することもなく、そのような経験の「図式化」の方をむしろ攻撃しているのだ。
「性に関する探究」全編を通して、ブルトンの態度は、一貫しつつ揺れ動いている。質疑応答の流れが予定調和な方向に流れはじめるや否や、すかさず鋭い批判の声を投げかけるのは、いつだってブルトンが最初である。どうしようもない俗っぽさと胸が震えるような真剣さが入り交じる「探求」の場で、ブルトンの狙いは認識力の研鑚であっただろうか。「性に関する探究」において、「外部」を志向する「ex-」の経験は、相互間の齟齬や思想の矛盾が露呈する場面で思いがけずに顕現する。
この意味において、第6回目の討論におけるブルトンvs.アントナン・アルトーの激しい交戦は、本書の序文でジョゼ・ピエールが述べるとおり、「『探求』全編を通しての圧巻」であり、「思考とポエジーの歴史のうえでもっとも素晴らしい、崇高で感動的な瞬間の一つ」と言えるだろう。徹底して「性の領域を個人的なもの、まったく私的な、自分だけのもの」とみなすアルトーにとって、シュルレアリストたちの集団実験はまったく相容れないものであったに違いない。ついにアルトーは、「探求」そのものの意義と在り方を批判するように、次のような台詞を吐き捨てる。「ぼくらが口にするどの言葉についても、お互いのあいだに全然共通の理解がないんだ。何かの言葉を口にするたびに分析が必要になるなら、議論なんて不可能だと思う。」…。ブルトンとほぼ一対一の交戦ののち、アルトーはあっさりとこの場を退席する。実験中にメンバーが席をはずしたのは、後にも先にもこれ一度きりである。アルトーの存在は、「場」そのものを揺るがしかねない闖入者と化しているが、ほかの回に比べて、「他者」の到来の印象を強烈に焼き付けているのは、この第6回目の討論であるように思われる。
最後にひとつ。このようなシュルレアリスムの集団実験は、今では活字資料を通してしか接することのできないものが多く、「性に関する探究」のドキュメントでも所々で発言が削除されていたり、声が聞き取れずに採録不可能だった部分が見られるのだが、こういった欠如がかえって読者の想像力を掻き立てる効果を生み出している。改めて思うに、書物に秘められた欲望の喚起力は強烈なものである。シュルレアリストたちは活字化の魔力に自覚的だったのだろうか?
[*]以下の邦訳がある。アンドレ・ブルトン編『性に関する探究』野崎歓訳、白水社、1993年(2004年新版、 『性についての探究』と改題)
(2006/03/19)