ロンバルディアのキアリズモ

最新の前衛美術を追いかけたわけではなく、また社会状況に対する声高なメッセージを掲げたわけでもないが、見過ごすことのできない堅実な仕事を残した作家たちというのはどの時代にもいるものだ。彼らの作品は激動の20世紀を生きたにしてはあまりに素朴で控え目過ぎるかもしれないが、そこには内面に向かって表現を熟成させた者だけが獲得できる静かな輝きがある。1930年代のミラノを中心に興った「キアリズモ(Chiarismo)」。「ロンバルディアのキアリズモ(Chiarismo Lombardo)」とも呼ばれ、日本語で読めるイタリア美術の文献ではほとんど名前が上がることのないこの流派もまた、そのような内なる輝きをロンバルディアの土地と伝統との結びつきのなかで創出した知られざる探究者たちだった。
キアリズモは未来派や空間主義のようにマニフェストを発表して芸術上の理念を共有した「グループ」でこそなかったが、ひとまずは1930年の9月にミラノのイル・ミリオーネ画廊で開催されたグループ展「ロンバルディアの芸術家たちの作品と習作(Opere e studi di artisti lombardi)」に出品した画家たちをキアリズモの代表格として挙げることができるだろう。すなわち、アンジェロ・デル・ボン(Angelo Del Bon)、クリストフォロ・デ・アミーチス(Cristoforo De Amicis)、フランチェスコ・デ・ロッキ(Francesco De Rocchi)、ウンベルト・リッローニ(Umberto Lilloni)、そしてアドリアーノ・スピリンベルゴ(Adriano Spilimbergo)の5人である。ちなみにこのグループ展を企画したのは『カーザ・ベッラ』誌の共同編集人でありデザイナーとしても活躍した美術批評家のエドアルド・ペルシコ。気鋭の批評家ペルシコがキアリズモを早い段階から評価していたことは注目に値する(もっともペルシコは1936年に36歳という若さで夭折してしまうのだが)。ちなみにキアリズモと地域は異なるが、美術史家リオネッロ・ヴェントゥーリが正規の美術教育を受けずに絵画の道に進んだ画家集団「トリノの6人」を、美術史家ロベルト・ロンギがマリオ・マファイを中心とする表現主義風のグループ「ローマ派」を擁護していたのはちょうど同時代のことである。
「キアリズモ」という呼称が最初に使われたのは1935年、批評家にして画家のレオナルド・ボルゲーゼがロンバルディアの若い画家たちを集めたグループ展に言及した際のことであり、次いで1939年にジャーナリストのグイード・ピオヴェーネがリッローニの個展を評した新聞記事のなかでこの呼称を再使用した。美術評論家マルゲリータ・サルファッティが主導するファシズムの公認芸術「ノヴェチェント」がキアロスクーロや堅固な形態を重んじたのとは対照的に、キアリズモの画家たちは白を多用した明澄な色彩をふんだんに用いて光の表現を追求し、身の回りの風景、静物、肖像画といった個人的な感情に基づく主題を集中して描いた。また彼らが参照したのは19世紀のロンバルディア絵画やフランス印象派、あるいはアンリ・ルソーのプリミティヴィズムであった。
代表画家のひとりであるデ・ロッキの30年代の作品を見ると、宗教画に登場する天使や聖人を思わせる人物造形、そしてフレスコ画を思わせる絵肌と淡く仕上げた色調が目を引く。もちろんこれらの作品を単なるアナクロニズムのもとに描かれた宗教画と見るのは間違いである。デ・ロッキはあくまで現実に存在する身の回りの人物、それも思春期の少年少女や慎ましい生活を送る農民といった、どちらかといえばあまり強い力を持たない人々に眼差しを注ぎ、世界に対して無力で傷つきやすい存在に理想を託した。しばしば「天上的」と形容され、「絵筆ではなく吐息で描く」と評されもしたデ・ロッキのリリシズムは、1930年代に最高潮へと達する。ノヴェチェントや次世代の抽象主義が台頭しはじめる当時のミラノの文化状況を思えば、デ・ロッキの反時代的主題や自閉性は確かに美術史に登録されにくい性質のものであり、ひとつの限界を示しているように思える。しかしこれもまた、不安な時代を生き延びるための切実な選択肢のひとつであったかもしれない。デ・ロッキの作品に、外界の出来事を一切遮断して目の前の静物や風景に集中し続けたジョルジョ・モランディのような画家との精神上の類縁性を指摘することはあながち的外れではないだろう。


[参考資料]
Il chiarismo Omaggio a De Rocchi : Luce e colore a Milano negli anni Trenta, Skira, 2010

2015/04/04