イタリア近現代彫刻受容小史(1)
――マリノ・マリーニと戦後日本の「遅れた出会い」
日本におけるイタリア近代美術の受容の歴史について考えたい。西洋化の波が押し寄せてきた明治時代、日本の美術家たちが範としたのは、イタリア近代美術よりもむしろフランス近代美術の方であった。森鴎外による未来派宣言の抄訳(1909年)に見られるように、イタリアの前衛美術が同時代的に受容されたケースがなかったわけではないが、イタリア近代美術の大半の動向については、あまり積極的に紹介されてこなかったというのが実情である。
それでは、フランスに比べて文化的に遅れがあると見做されてきたイタリア近代美術が、注目すべき同時代の表現として日本の美術家たちに強く意識されるようになったのは、一体いつ頃からのことなのだろうか?
美術の領域における日伊交流史を見ていく上で、非常に参考になる資料がある。1979年に国立国際美術館で開催された「近代イタリア美術と日本 :
作家の交流をめぐって」展のカタログだ。「近代イタリア美術と日本」展は、アントニオ・フォンタネージの時代からアルテ・ポーヴェラ以降までイタリア近現代美術の展開を辿るとともに、イタリア近現代美術に影響を受けた日本の作家たちも併せて紹介するという極めて意欲的な趣旨の展覧会であった。その規模も中々のもので、イタリア人作家18人、日本人作家28人、計120点もの作品が一堂に集まったようだ。
美術評論家にして当時の国立国際美術館館長である本間正義が展覧会カタログの序文で述べるところによると、日本の近代美術は、第2次世界大戦前はパリ、大戦後はニューヨークをメッカとして海外の動きに倣おうとしてきたが、そのさらに後、第3の地として注目されるようになったのがローマやミラノといったイタリアの都市なのだという。逆を言えば、日本は20世紀の後半に到るまで、最先端の美術を発信する地としてイタリアを認識していなかったということだ。
だがこれは、仕方のないことと言えるかもしれない。日本もイタリアも、それぞれ軍国主義/ファシズムを経て敗戦に到った大戦下の経験があり、大戦後にようやく高度経済成長期を迎えて発展した後発の先進国である。日本の近代美術はパリやニューヨークに追従しながらローカリズムを克服しようとしてきた歴史があり、一方でイタリア美術は未来派以降、グローバルな影響力を持ち得る前衛が長く不在だった。両国の文化的な出会いが大戦後になって果たされたのは、ここに来てようやく機が熟したのだと捉えるべきだろう。
本間も先に挙げたテキストのなかで、大戦前/後のイタリアの美術状況を次のように把握している。「第1次大戦では、戦争の破壊に密着するように、今日的な表現があらわれてきたのと違って、第二次大戦では、早急には反応しないで、しばらく戦前の状態が復活するかたちで進み、ワンテンポ遅れたように出てきている」。続けて本間は、「しかしこのようなおくれは、極東に偏在して、いつも国際化における情報の摂取と文化の伝播に、ハンディを背負っていた日本美術にとっては、かえっていいタイミングであった」と分析する(7頁)。
両国はそれぞれ「文化的な遅れ」を経て、大戦後に出会いを果たした。これが、日本におけるイタリア近代美術の受容の歴史を見ていく上で把握しておきたい第一のポイントである。
さらに興味深いことに、本間は1950年代末から日本に影響を及ぼし始めたイタリア美術のなかでも特筆すべき動向として、「第二のルネッサンスといわれて、華々しく開花した現代イタリア彫刻」の存在を挙げる。
大戦後のイタリア前衛美術運動と言えば、ルチオ・フォンタナを主導者とする空間主義(スパツィアリスモ)や、1960年代に興隆したアルテ・ポーヴェラなどが挙げられるが、他方には戦前から脈々と受け継がれる具象彫刻の流れがある。それらは戦前から変わらないスタイルを維持する保守的表現と解されることもあるだろうが、こと日本におけるイタリア近代美術の受容の歴史を考えるとき、イタリア具象彫刻が戦後日本の重要な彫刻家たちに長期に渡って影響を及ぼしてきた現象を見逃すわけにはいかない。
戦後はイタリア具象彫刻を紹介する展覧会も少しずつ増え、ジャコモ・マンズー、ペリクレ・ファッツィーニ、エミリオ・グレコといった彫刻家たちの個展が美術館や百貨店でこぞって開催された。前衛に対する伝統、革新的表現に対する保守的表現といった二項対立的図式から一旦離れ、まずは虚心坦懐にイタリア具象彫刻ブームの現象そのものを見つめる必要がある。
本稿では、日本でも知名度の高いイタリア具象彫刻の巨匠、マリノ・マリーニを取り上げ、イタリア近現代美術の受容のひとつの具体例を示すことにしよう。
アルトゥーロ・マルティーニ、ジャコモ・マンズーと並び、名前の頭文字を取って「イタリア現代彫刻の3M」の一人と称されるマリノ・マリーニ(1901-1980)。若き日は絵画や版画なども手掛けていたが、1922年頃からは彫刻制作に専念し、馬にまたがる人物が両手を広げて危うい均衡を保つ「馬と騎士」シリーズや、豊満な肉体の女性像「ポモナ」シリーズで知られるようになった。1952年にはヴェネツィア・ビエンナーレで彫刻大賞を受賞。また、ミラノのブレラ美術学校の彫刻科教授として教鞭を執るなど、後続の作家たちに与えた影響も大きかった彫刻家だ。
日本でマリーニの紹介が目立つようになったのは1950年代頃からである。もっとも早いのは、おそらく美術評論家の富永惣一による『みづゑ』1952年12月号での紹介だろう。イタリアを訪れた富永は、新しい彫刻の動きとしてマリーニとペリクレ・ファツチニ(原文ママ)、エミリオ・グレコを挙げるのだが、とりわけヴェネツィア・ビエンナーレで実見したマリーニの12点の彫刻と6点の絵画については、今回の展示の「花形」と賛辞を送っている。
「(…)彫刻的な要素と野性的なエネルギーとが、しかも新しい感覚となって動いている様子はなかなか手応えの強いものであった。(…)静かな体形でありながら、一刻も休まぬ熱烈な燃焼をもって、形体が丙からあふれ出るような脈を打っている」(17頁)。
翌年の『みづゑ』3月号では、美術評論家の土方定一が、ブランクーシと並べてマリーニを紹介する(「マリノ・マリーニとブランクーシ」)。しかもこれは貴重なマリーニのアトリエ訪問記でもある。ビエンナーレの展示を見て作家本人に会いたいと希望した土方は、知人と連れだってマリーニのアトリエを訪れたのだった。土方のマリーニ評も引用しておこう。「エトルスク的彫刻のアルカイックな様式が見られると同時に、その時代の首には自然主義的な描写的傾向が多分に見られて、この様式と描写的傾向は分裂したままになっている」(25頁)。「だが、マリーノ・マリーニは、遂に、そういう自然主義的な描写的傾向を次々と大胆に切断しながら、単純な形―ブランクーシの意味の―に凝結させて行っている。この野性的なたくましさは全く見事だ」(26頁)。
土方といえば、河出書房新社から初版が刊行された彼の著作『現代イタリアの彫刻』(1957年)も忘れるわけにはいかない。これはイタリアの近代彫刻についてまとめた日本における最初の書物であり、マリーニの近作も図版入りで紹介されている。
雑誌におけるマリーニ紹介の歴史に戻ろう。土方のテキストに続いて1954年、『美術手帖』9月号では、当時、東京国立近代美術館に勤めていた今泉篤男がマリーニについての文章を寄稿している。「またマリーニの作品はエジプトの彫刻に似ているとか、古代ローマのものに似ているとか、ブランクーシ彫刻を手本にしているとか、殊にエトルスクの彫刻を新しい解釈で現代に生かしているものだ、というようなことがよく指摘されている。こういういろいろな様式の特色は、現代彫刻家の誰の作品の中にも何らかの形で投影しているには違いない。そういう意味では、マリーニの作品も同様と言えるだろう。しかし、私がマリーニの作品を見て強く感ずることは、そういう影響に対して、この彫刻家が形式的でなく非常に体質的な受け入れ方をしているので、例えばエトルスクの彫刻を見ていると、昔のエトルスク人がマリーニの真似をしているような錯覚さえ起こしかねない」(5頁)。
マリーニ作品にエトルスク彫刻の影響を直接的に見出した土方に喧嘩を売るような論旨であるが、今泉がマリーニ作品から感じ取った「体質」は、もしかしたら土方の言う「野性的たくましさ」と同根なのかもしれない。日本人の心を捉えたマリーニ作品の魅力とは、古代彫刻をルーツとするような歴史的背景よりも、文脈を越えて直接的に訴えかける激しい生命力であった。ちなみに今泉は、マリーニの「馬と騎士」シリーズについては、「マリーニは現代彫刻家として、人間のヴァイタル・フォース(活力)の新しい蘇りを彫刻に吹き込んだ」と、シンプルにその生命観溢れる表現を讃えている(8頁)。
1950年代のマリーニ受容が言説のレベルのみに留まった「伝聞の時代」だとするならば、1960年代は展覧会での受容がはじまる「実見の時代」と区分けすることができよう。最初にイタリア具象彫刻ブームの火付け役となったのは、1955年に東京都美術館で開催された「第3回国際美術展」(日本国際美術展)である。毎日新聞社主催で1952年に開始した「日本国際美術展」は、最先端の海外美術を日本に紹介する重要な役割を果たしていたのだが、グレコとファッツィーニが招待作家として出品した第3回は、ファッツィーニが外務大臣賞を受賞して話題を攫ったのもあって、主に実作者たちの間にイタリア具象彫刻ブームを巻き起こしたのだった。
また、1961年に東京・高島屋で開催された「イタリア現代彫刻展」の影響力も大きい。この展覧会は、20世紀前半のイタリア彫刻の変遷を3つの世代に分けて紹介する本格的なもので、未来派のボッチョーニから空間主義のフォンタナまで、38作家の122点が展示された。マリーニの作品3点も、本邦初のお披露目は「イタリア現代彫刻展」でのことだった。なかでも観客を圧倒したのが、4m近い高さの巨大彫刻《戦士》である。《戦士》はあまりにサイズが大きすぎて高島屋7階の会場に入りきらず、本来は展示スペースではないホール中央に商品に囲まれるかたちで設置される格好となった。これがかえって美術に関心のなかった人たちの注目を集め、マリーニ作品の魅力を周知のものとする良いきっかけとなったようだ。
のちに本間は、「イタリア現代彫刻展」での衝撃を回顧して、マリーニの彫刻が当時の日本人にもたらした感興を次のように分析した。「マリノ・マリーニの彫刻は、ローマ的というより、先住民族のエトルスクの素朴なアルカイックな表現を引いて、内から外に向かって発散する古代的な力をあらわしたが、それは心情的にゆるやかな日本人の美意識に、真向から対立するような資質として、一層、鮮烈な印象を与えたのである」(本間正義「日本におけるマリノ・マリーニ」10頁、『マリノ・マリーニ』1978年、現代彫刻センター)。
「イタリア彫刻現代展」を受けて、いくつかの美術雑誌は立て続けにイタリア彫刻の特集を組んだ。『美術手帖』1961年3月号の特集は、展覧会のレポートを兼ねた「現代イタリア彫刻」。マルチーニ、マンズー、ファツィーニ、マリーニ、グレコ、ミルコ、クリッパらの図版に加え、論考や座談会が掲載される充実の内容だった。たとえば瀬木慎一は、マルチーニ(アルトゥーロ・マルティーニ)をまず最初に評価しながらも、マンズーとセットのかたちで展示されたマリーニについては、「強靭な生命力の発現である馬の連作」に注目している(28頁)。さらに瀬木は、マリーニとマンズーの伝統的な具象様式がマスケリーニ、ファッツィーニ、グレコらによって極限にまで高められたという史観を提出し、マリーニ、マンズーは「反逆のあとの安定」だったのだと評する。
特集内のコラムでは美術家の山口勝弘による寄稿が目を引く。山口もまたマリーニを支持しているのだが、特に写真と実物の落差に驚きを禁じ得なかったようだ。おそらく「現代イタリア彫刻展」で実物を見るまでは図版でマリーニの作品に親しんでいたのだろうが、写真/実物による受容が制作に及ぼす影響を考慮するあたりに作家らしい批評眼が光っている。山口は、写真による形式的な影響が形式的な複製彫刻の制作に繋がってしまう危険性に警鐘を鳴らし、この短いコラムを終えている。
彫刻家の佐藤忠良は、出品作家全般に対して「年齢も自分と同じ位なのに、こんなに力の強い奴が地球のあちら側にいるのかという見事な感嘆であった」「しかも、そこに在るものは生きものである。私たちのはみんな死人に見えた」と、驚愕の感情をあらわに綴る。マリーニについても高評価で、いわく「さすがにマリーニが空間に与える影響の質には確然とした質の違いがある」(25頁)。
『みづゑ』の同年2月号の特集も「イタリアの現代彫刻」である。ここでは土方定一が寄稿するほか、彫刻家の建畠覚造がマリーニに対して「伝統を超越したヒューマンな魅力」(28頁)と賛辞を与えている。このように、1961年は日本におけるイタリア彫刻受容の年、そしてマリーニ受容の年として明記すべき年となったのだった。
1972年の「現代イタリア彫刻の全貌展」(彫刻の森美術館)、1974年の「現代イタリア彫刻展」(西武渋谷店)と、その後も展覧会におけるイタリア彫刻の紹介は断続的に続く。そしてついに1978年、マリーニの満を持しての大回顧展が開催された。既に日本で多くのファンを獲得していたことを思えば、もっと早くに個展が実現していてもおかしくはなかったのだが、初期から近作まで彫刻だけでなく、絵画、素描、版画を含む138点を集めた本展は、東京国立近代美術館ほか山形美術博物館、北海道立近代美術館、兵庫県立近代美術館を巡回し、マリーニ作品を待ち焦がれる日本各地の観賞者たちを満足させたのである。
マリーニ受容の歴史はここでひとまずの区切りをつけることができる。1950~70年代という長いスパンに渡って、ゆっくりと、しかし着実に、マリーニの作品は日本の実作者や観賞者の間に浸透していったのだ。
マリーニの受容史を辿る上でもうひとつ忘れてはいけないのが、マリーニから直接の指導を受けた日本人弟子、吾妻兼治郎の存在だ。1926年生まれの吾妻は1956年にイタリアに渡り、ミラノのブレラ美術学校でマリーニに師事した。留学期間を終えた後もイタリアに残り、はじめはマリーニ風の具象彫刻を、戦後は師匠からの影響を一新するような抽象彫刻を手掛けた。巨匠の仕事を間近で感じてきた吾妻は、作品集『マリノ・マリーニ』(1978年)に寄稿した際、老境に差しかかった彫刻家の現況を以下のように書く。「マリーニは現在76歳。非常に元気であり、小品ブロンズ像でも制作しようとすればいくらでも可能な状態にありながら、制作をしようともせず、じーっとして遠い空を見つめている。何を考えているのだろうか。世間を憂いているようだ。マリーニが築きあげた大きな名声を持ってすれば、極端にいえば、どんな愚作でも、マンネリズムの作品でも、何百点作っても、高い値で売りさばくことが出来る立場にありながら、そんなことには目をつむり、耳をふさぎ、口をとざしてじーっとしているマリーニの姿は貴い。(…)近年稀にみる偉大な芸術家であろう」(吾妻兼治郎「マリノ・マリーニ」、20頁)。これまで確認してきたマリーニをめぐる言説とはまた異なる角度からの、しかしこれもまたマリーニの「別の側面」を伝える貴重な証言のひとつである。
ところでマリーニと言えば、エトルスク彫刻との関連やヒューマニスティックな生命力の表現といった側面から語られることが多いのだが、本間正義が1978年刊行の作品集に寄せたテキスト「日本におけるマリノ・マリーニ」で意外なマリーニ解釈を提示しているので、最後に紹介しておきたい。本間はここで、具象彫刻の歴史とは異なる文脈にマリーニ作品を接続している。まず第一に、マリーニは石膏じかづけの技法で日本の作家たちに影響を与えた(これは何度も指摘されていることだ)。それだけでなく、彫刻に彩色をほどこすという手法でも先駆的な姿勢を示した。しかもこの彩色は、赤、青などの原色であって、対象の再現色ではない。これは、彫刻と色彩の密接不離な関係を主張するプライマリー・ストラクチュアの先駆的表現であり、その最初の実験的な成果を上げたのがマリーニではないかと本間は主張するのである。
確かにマリーニは1930年代から木彫に彩色するシリーズを開始している。また、1942年の《小さな馬乗り》のように、テラコッタに部分的に原色をほどこした作品なども手掛けている。それにしても、マリーニがプライマリー・ストラクチュアの先駆けとは、何と大胆な解釈だろう。この解釈が妥当かどうかについては綿密な検証が必要だが、作家の「別の側面」を引き出そうとする意欲的な解釈であることは間違いない。ある人にとってはマリーニという彫刻家は前衛の実験が収束した後に来るべくしてやってきた安定期の作家であるが、また別のある人にとっては、未来の前衛の先駆けなのだ。とりわけ、「文化的な遅れ」を経てイタリア具象彫刻と出会った日本人にとっては、マリーニは前衛に代わるオルタナティブな指標だったのかもしれない。
「イタリア具象彫刻の巨匠」という幾度となく繰り返されてきたラベリングを越えて、マリーニの多角的な魅力がさらに語られていくべきだろう。マリーニに影響を受けた日本人作家たちの名前を挙げて本稿を終わりにしよう。吾妻兼治郎、佐藤忠良、柳原義達、舟越桂、そして成田亨。
この名前の一覧からも、日本におけるマリーニ受容の思いがけない側面が発見できるはずだ。
[参考資料]
『近代イタリア美術と日本 : 作家の交流をめぐって』、国立国際美術館、1979年。
『マリノ・マリーニ展』、東京国立近代美術館、読売新聞社、1978年。
吾妻兼治郎著『マリノ・マリーニ』、現代彫刻センター、1978年。
2016/10/10
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