総合芸術家フォルトゥナート・デペロ
――未来派第二世代の旗手を再考する




 イタリア未来派を20世紀最大の前衛芸術運動と評することに異論を挟む人はいないだろう。1909年、詩人のフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティがフランスの日刊紙『ル・フィガロ』の一面で扇動的な「未来派の創立と宣言」を発表して以降、この芸術運動はイタリア国内のみならず、ロシア、日本といった遠い異国にまで伝播し、インターナショナルな動向へと発展したのだから。もちろん、地理的な条件を克服したことばかりが未来派の凄さではない。後続の20世紀イタリア美術史に及ぼした影響という意味でも未来派の存在は非常に大きかった。空間主義、アルテ・ポーヴェラ、トランス・アヴァングァルディア、あるいは美術以外のデザインや演劇といった諸ジャンルは――傍目に影響関係がはっきり見てとれるかどうかは別の問題として――、未来派を創造の源泉のひとつとしてそれぞれ多様な成果を生んだのである。
 もっとも、未来派の運動自体は決して息の長いものではなかった。1909年の宣言に端を発する未来派の運動は、ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ジーノ・セヴェリーニ、アントニオ・サンテリアら綺羅星のごとき美術家・建築家たちの前衛の名にふさわしき活躍によって牽引されるも、第一次世界大戦の終結頃には早くも収束を迎えていた。ボッチョーニやサンテリアといった主要メンバーがこの頃に夭折したことに加え、マリネッティがムッソリーニのファシズムに接近していく「芸術の政治化」の流れから、未来派は当初持っていた前衛運動としてのラディカリズムを散逸させてしまったのだ。
 ただし、第一次世界大戦でいったんの収束をみたのは、あくまで未来派の「第一世代」による活動であることに留意したい。第一世代にあたる画家や彫刻家たちは運動のダイナミズムや速度の美学をキュビスムの影響下から出発した抽象絵画や彫刻作品によって実践してきたわけだが、彼らと入れ替わるようにして出現し、第一世代とは別の仕方で未来派の美学を追求した「第二世代」が1910年代の後半から第二次世界大戦頃にかけて活躍するのである。
 エンリコ・プランポリーニ、トゥリオ・クラーリ、ジェラルド・ドットーリ、ドメニコ・ベッリといった第二世代の面々が、第一世代の美術家たちに比べてマイナーな印象をもつのは否めない。他方で彼らの仕事は、未来派の当初の理念をより自由なかたちで発展させて多様性をもたらしたという意味で、注目すべきところがある。たとえば井関正昭は、第二世代は「破壊やダイナミズムよりも芸術文化の前衛の方向を選ぶことができた」美術家たちであり、「機械や技術への願望は残しながら、それはむしろ破壊より新たな建設の方向」に向かった世代であると位置付けている(『私が愛したイタリア美術』、144頁)。芸術から文化へ、そして破壊から創造へ。第二世代の最大の特色は、未来派を「応用美術」ないし「総合芸術」のステージに押し上げたフレキシビリティにあると言えるかもしれない。
 そして、本稿で取り上げる第二世代の美術家フォルトゥナート・デペロ(1892-1960)もまた、絵画、立体作品、舞台美術、広告デザインといった多分野でその才を発揮した、総合芸術の「マルチプレーヤー」とでも言うべき存在であった。

 デペロは1892年、トレンティーノ地方フォンドにある小さな村で生まれた。幼少の頃にロヴェレートに移住。応用美術の職業学校で学び、若い頃には象徴主義風の具象画を手掛けていたが、1913年のフィレンツェ、ローマ旅行を経て未来派周辺の動向を伝える雑誌『ラチェルバ』やボッチョーニの作品を知り、バッラ、マリネッティの知己を得る。第二世代の代表格に位置付けられる美術家とはいえ、既にデペロは20歳の若さで第一世代の未来派主要メンバーと出会って運動に加わっていたのだ。未来派の年長者バッラとは実に21歳差である。
 当時の最先端をゆく前衛芸術運動である未来派は、たちまち早熟なデペロの心を掴んだ。象徴主義からボッチョーニ、バッラ風の抽象絵画に転じて未来派のグループ展に参加したばかりでなく、1914年には「造形複合体-未来派自由遊戯-人工的生」と題した宣言をデペロ自身が起草する。これは、「造形複合体(コンプレッソ・プラスティコ)」なる「未来派玩具」のアイデアの萌芽が見られるという意味でも、デペロの未来派としての出発をオリジナルにしるしづける重要な宣言であった。造形的複合体は当初は宣言内での構想のみが先行しており、すぐには造形物として具現化しなかったが、翌年にバッラと連名で発表した「未来派による宇宙の再構築宣言」において、より明確に定義を下されることになる。「未来派による宇宙の再構築宣言」の一部を引用しよう。
 「未来派たるわれわれバッラとデペロが、こうした完全なる混交を実現しようと望むのは、宇宙を再構築すること、すなわち宇宙を活性化し、全体として再創造することである。われわれは、見えないもの、蝕知できないもの、量れないもの、そして知覚できないものに、骨格と肉体を与えよう。われわれはまた、あらゆる形態、宇宙のあらゆる要素に対して抽象的な等価物を見いだそう。次に、そうした抽象的等価物を、われわれの霊感の赴くままに組み合わせ、造形複合体を作り上げて、それに動きを与えよう。」(『デペロの未来派芸術展』、178頁)。
 そして、造形的複合体(コンプレッソ・プラスティコ)の物質的構成として以下のような素材が挙げられる。「さまざまな太さと色の金属線、木綿糸、麻糸、絹糸。色ガラス、薄紙、セルロイド、金属網、さまざまな種類の透明な素材、極彩色の素材、布、鏡、金属板、彩色ブリキ、あらゆる種類のけばけばしい素材。機械装置、電気仕掛け、音楽装置、雑音装置、化学的にさまざまな色に変化する液体、ばね、てこ、チューブなど」(同書、178頁)。この一覧からもわかるように、造形的複合体においては思いつく限りの新素材が総動員される。では、様々な素材の寄せ集めによってつくられる造形複合体の用途とは何であろうか? 造形的複合体はいわゆる彫刻作品、立体作品の類ではない。第一にそれは子どもをしつけるための玩具なのだ。造形複合体は、従来のグロテスクな模倣や臆病さしか認められない反体育的で単調な玩具とは異なって、子どもを「大らかに笑えるように」「できる限りの柔軟性を持つように」「彼らの想像力を引き出すように」「感受性を限りなく鋭敏にそして優しくする」「闘争や戦争に向かう肉体的勇気を持つ」ようにしつけるのである。
 残念なことに造形複合体は現存せず図版でしか形状を知ることができないのだが、少ない資料や「宣言」から察するに、それは異なる素材の組み合わせで出来ているという点ではアッサンブラージュの一種にも思えるし、モーターで動くという発想をもっているという意味ではキネティック・アートの先駆であるようにも思える。ともあれ、かなりユニークで実験的な発想の産物であることは間違いないだろう。
 篠原資明はデペロの「道具的なものとしての芸術」という思想が造形複合体に結実していると捉え、絵画や彫刻とちがって使用したり触れたりできる「玩具」としての特性に注目する。造形複合体は光や芳香を放つものとしても構想されていたのだから、使用者は視覚ばかりでなく触覚や嗅覚も刺激されることになる。「使用者に感覚の教育を施すこと、そして共感覚の喚起を促すこと」(『現代芸術の交通路』、70頁)、「人間の潜在能力としての共感覚を喚起しようと試みていた」(同書、71頁)というのが、未来派玩具=造形複合体についての篠原の見解である。
 そして、様々な可能性を秘めた造形複合体は、「舞台芸術」の場においていよいよ真価を発揮する。デペロはロシアの「バレエ・リュス」を率いるセルゲイ・ディアギレフと出会い、1916年に歌劇『ナイチンゲールの歌』の舞台美術と衣装の企画制作を依頼された。デペロがこの企画で構想したのは、バレエダンサーが登場しない代わりにモーターと騒音装置のついたロボットの花などが登場する、まさに「未来派による宇宙の再構築宣言」で掲げていた「人工的風景」を体現するような舞台であった。これは、当時のヨーロッパ全体で興っていた「人間=機械」の一体化を夢想する機運とも一致する。たとえばロシア・アヴァンギャルドも人物を機械的形態に見立てる造形的実験をこの頃に展開しており、とりわけ劇場はまさに「人間=機械」というテーマを追求するための実験場となっていた。山口勝弘によると、「当時の劇場のパフォーマンスの中心テーマが人間=機械」(『ロボット・アヴァンギャルド』、12頁)であり、それは「人形劇による実験」あるいは「人間の機械化」という2つの方向のいずれかに向かったのである。この分類に従う場合、デペロは前者の道を選んだということになる。
 技術的・資金的に実現不可能と踏んだのか、結局ディアギレフはデペロの案を却下する。しかしまだここではデペロの夢は終わらない。ちょうどこの頃、デペロは異能のスイス人作家・建築家ジルベール・クラヴェルと交流を開始し、ディアギレフの舞台で実現できなかった「造形的複合体」の演劇における実験を2人で完成させたのだ。1918年、クラヴェルとの共同で企画制作した「造形的バレエ」がそれである。
 「造形的バレエ」は、色とりどりの玩具のようなマリオネットが舞台上で踊る音楽つきの人形劇である。1918年4月にローマのピッコリ劇場で人形劇団ゴルニ・デラックアが演じたこの人形劇は、計11回も上演され、新聞や雑誌でさまざまな論評を引き起こした。とりわけ子どもたちは熱狂的な反応を示したと伝えられる。この「造形的バレエ」の上演内容や当時の論評、デペロとクラヴェルの交流については田中純による『冥府の建築家』に詳しい。同書ではクラヴェルの視点からみた「造形的複合体」がどのようなものであったのかについては以下のように記述されている。「クラヴェルにとって造形的バレエはいわば、古代エジプト芸術の枠を凝集した儀礼の現代的な再演であり、それが同時に、機械文明を再魔術化する試みでもあったと言えようか。舞台上のマリオネットたちは未来派というあらたなる野蛮人たちのフェティッシュなのである。」(『冥府の建築家』、251頁)。
 このとき使用されたマリオネット自体はデペロ自身が破壊してしまったようで造形的複合体と同様に現存しないのだが、現在、CGで復元された「造形的バレエ」がYouTubeなどで視聴できる。ここで見られるマリオネットたちは人形遣いの手を離れ、みずから生命を獲得し、自在に舞い踊っているように見える。まさに、デペロの夢見た「人工的生」の、数十年の時を経ての蘇生である。

 創作におけるクラヴェルとの蜜月関係はじきに終止符を打つも、デペロの活動は前衛芸術という限定されたフィールドを飛び出してさらなる拡張を続けた。1919年、ロヴェレートに「未来派の家」を開設するのである。「未来派の家」はタペストリーやクッションの製作と、広告デザインの仕事を2本柱とする応用美術の工房のようなものであった。運営はデペロと妻のロゼッタによって行われた。デペロは1910年代の後半から「彩色されたフェルト」によるタペストリー絵画を手掛けていたが、「未来派の家」ではこの経験を活かして応用美術の分野に進出し、ゴブラン織りやペルシャ、トルコ、インドなどのタペストリーにヒントを得たモダンな布製品を次々と生み出して成功をおさめた。1923年にはモンツァで行われる有名な国際装飾美術展の内装を担当し、「未来派の家」のための大きな展示室が与えられるなど、工房は順調に活動・事業を拡大させていく。
 他方、大きな収入源となった広告デザインのなかでもっともデペロをスターダムに押し上げた仕事のひとつが、有名なイタリアのリキュールブランド「カンパリ」のラベルデザインである。
 カンパリとの提携関係は1925~26年頃に始まる。カンパリ独特の逆円錐形のボトルと抽象的な形態に還元された人体が呼応し、人目を引く「CAMPARI」のロゴが躍るデザインは、未来派的の面影を残しつつもユーモラスで、ナンセンスな言葉遊びも巧みに取り込むものだった。モノクロのデザインが選ばれたのは新聞広告に掲載されたときの見え方を狙っているためで、新聞を読む中流階級を購買層として想定したためだと言われる。「造形的複合体」の持つ啓蒙性が、いわばハイアートから一般大衆へと向かう下降的なベクトルによるものだったとするならば、タペストリーやカンパリの広告仕事は、大衆の生活に入り込み、その内部からモダンライフを提案するようなタイプの「啓蒙」だったと言えるのではないか。1910年代から1920年代にかけてのデペロの活動原理の転換が、ここに見られるように思われる。

 やがて「未来派の家」には方々からの注文が殺到し、少人数体制での経営は困難を極めた。デペロは新天地を求めて1928年、ニューヨークへと拠点を移す。このときには「芸術の産業化」という確固たる理念が活動の基盤を占めていたようだ。「芸術の政治化」に傾倒した未来派創設者のマリネッティと比べてなんと多くかけ離れた場所に来ていることだろう。
 ニューヨーク時代、デペロは摩天楼やサブウェイなどをモチーフとした幾何学性と構築性の顕著な絵画作品を手掛けた。デペロに舞い降りた新たなヴィジョンは都市生活という主題だった。しかし、ニューヨークでの活動は長くは続かず、2年でピリオドを打つ。その後も都市生活のイメージは絵画作品の主題に採用され続け、第二次世界大戦後にデペロを再びアメリカの地へと赴かせることになったが、さすがにこの頃にもなると、アメリカの最先端の動向に比べて未来派の残滓から抜け切れないような作風は時代遅れであり、新境地と呼べるほどの作品は生み出せなかったようだ。1959年に未来派としては唯一の個人美術館であるデペロ美術館を開設し、自身の活動の歴史的パースペクティブを与えたのち、デペロは1960年に68歳でこの世を去った。
 おそらくデペロの美術家としての最も華々しい時期は、造形的複合体を演劇の場において昇華させた1910年代後半から、応用美術、広告デザインの充実した仕事を生み出した1930年代頃までのことだったと思われる。そして、この頃の作品群は、演劇、広告、タイポグラフィなどジャンルを越えて多くの作り手たちに創造のインスピレーションをもたらしたのだった。未来派第一世代とは異なる路線で、生活に密着した創造性や遊戯性をもって。
 「宇宙の再構成」は、いわば日常の次元において完成する。前衛芸術運動がもつ一種の排他性、選民主義を軽やかに解体し、日常の地平に未来派の理念を浸透させた美術家として、ここからデペロを再評価するいくつかのポイントが見出されるのではないだろうか。


[参考資料]
田中純『冥府の建築家 : ジルベール・クラヴェル伝』、みすず書房、2012年。
井関正昭『私が愛したイタリアの美術』、中央公論美術出版、2006年。
篠原資明編著『現代芸術の交通論 : 西洋と日本の間にさぐる』、丸善、2005年。
田之倉稔『イタリアのアヴァン・ギャルド : 未来派からピランデルロへ』[新装版]、白水社、2001年。
『デペロの未来派芸術展』、東京都庭園美術館、アプトインターナショナル編、読売新聞社、2000年。
山口勝弘『ロボット・アヴァンギャルド―20世紀芸術と機械』、Parco出版、1985年。

2018/02/02



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