沈黙の形態
―1940年代のジョルジョ・モランディ (前編)




 ――「見えるものを書く者から、見えないものを描く者へ」(「ボローニャの夕暮れ」) 



フィクションのなかのモランディ

 2008年公開のイタリア映画『ボローニャの夕暮れ』は、プーピ・アヴァーティ監督の故郷への思いが色濃く反映された作品である[*1]。舞台は第二次世界大戦下のイタリア・ボローニャ。監督の生年・出身地と同じ1938年のこの街を起点に、美術教師を務める中年男のミケーレ、美しき妻のデリア、高校に通う一人娘のジョヴァンナをめぐって物語は展開する。ジョヴァンナは内気な娘で自分に自信が持てず、精神的に不安定なところがあるためにクラスでは浮いた存在だが、ミケーレにとっては目に入れても痛くない溺愛の対象だ。ミケーレはジョヴァンナが密かに想いを寄せる男子生徒との仲を取り持つべく、教師の立場を利用して裏工作まで画策する。しかしそこで事件が発生する。ジョヴァンナが男子生徒のガールフレンドを行き過ぎた嫉妬から刺殺してしまうのだ。
 ジョヴァンナは世間から隔絶された拘置所、次いで精神病患者が入院する施設へと収容される。やがてムッソリーニのファシスト党による政治支配が始まり第二次世界大戦が勃発するなど、目まぐるしく変転する社会状況が市民の生活を圧迫しはじめる。一家と親しい付き合いのある警察官のセルジョも生き延びるために体制側に恭順の姿勢を示し、ボローニャの市街地も爆撃による深刻な被害を受けるのだが、ミケーレはそのような周囲の混乱などお構いなしであるかのようにジョヴァンナとの面会に足繁く通い、半ば正常な会話の通じない彼女との対話に心血を注ぐ。
 ごく大まかに捉えるならば、映画の主題は激動の時代を背景にした家族の崩壊と再生である。一方、穏やかさと危うさのあいだを揺れ動く家族の物語には、斜塔やポルティコといった街のシンボル、ボローニャの地方紙「イル・レスト・デル・カルリーノ」、くすんだレンガ色と黄土色を主調としたアパルトメントの壁の色彩など、ボローニャという一都市のローカリティを強調するような要素が随所に散りばめられ、アヴァーティ監督の故郷へのこだわりを伺わせるものとなっている。 ローカリティや時代性を徴し付けるのは、小道具や撮影地ばかりではない。この映画には、いまからこのテキストの主役となるボローニャ出身の画家、ジョルジョ・モランディ(1890~1964)が登場するのである。厳密に言うと、モランディは映画の作中人物として、つまり生きた俳優によって演じられる役柄として「登場する」のではない。むしろモランディは「登場しない」ことによって、その存在を物語に寄り添う影へと変貌させているのだ。
 『ボローニャの夕暮れ』はあくまでもフィクションだが、本作でのモランディは、ミケーレが若き日に通っていたボローニャの美術学校時代の同窓生という設定である。ミケーレは折に触れてはモランディに手紙を綴る。「親愛なるモランディ、同窓のM・カサーリだ。今や君は有名な画家だが私の母のカツレツを今でも覚えているかね?」「モランディ、また手紙の返事はくれないのだろう。(…)君の許可さえあれば青春時代の思い出を本にしたい」。
 やがて戦争が悪化し、ミケーレは娘の収容された施設に程近いレッジョ・エミリア地方の農家へと身を寄せるようになる。郊外での静かな、しかし不安に満ちた夜の一場面。モランディの1928年のエッチングを眺めるミケーレの表情には、疲労のなかにも微かな安らぎの色がにじむ。
 モランディからの返事はついに来ることのないまま、破綻した親子・夫婦関係が再生の兆しを示したところで物語は幕を閉じる。同時代の同地域を生きながら、「世界的に有名な画家」モランディの存在はミケーレの居場所から遠く切り離された場所にあり、ミケーレとはまったく接するところのない生を営んでいるかのようだ。モランディの存在が物語の筋とは直接関係のないレベルで作中に挿入されていることも、2つの存在が隔絶している感覚を助長させる。
 だが、2つの存在の埋めがたい「距離」は、必ずしも絶望的な調子を帯びてはいない。ミケーレにとっては、かつての幸せな記憶を共有する友人であり、世間の喧騒から遠く離れたかのような場所で絵を描き続けるモランディに手紙を書き続けること自体が、ささやかな希望と成り得ているかのようなのだ。それに、今一度立ち止まって考えてみたい。戦争など目に入らないかのようにジョヴァンナと真向かい続けたミケーレと、世相を反映する要素を慎重に画面から排除して身の回りの静物や花や風景にだけ集中したモランディ――、この2人が時代に対して反動的と言えるまでに選び取った姿勢は、奇妙な相似関係をつくり出してはいないだろうか?
 『ボローニャの夕暮れ』にあらわれるモランディの「影」は、戦争がもたらす悲惨な社会状況下で生き延びるためのひとつの道を静かに指し示す。芸術は確かに人々の生死に対して無力であるかもしれないが、社会とダイレクトに関係を切り結ばず「世界と逆立したもうひとつの現実」を生きることの可能性を、アヴァーティ監督は隠れたメッセージとして提示しているのかもしれない。
 21世紀に製作された『ボローニャの夕暮れ』とは打って変わって時代を遡り、今度はモランディの同時代につくられた物語を紹介しよう。これもまたモランディが「登場する(登場しない)」フィクションの一例である。その作品とは、フェッラーラ育ちのユダヤ系イタリア人作家、ジョルジョ・バッサーニ(1916~2000)による小説『フィンツィ・コンティーニ家の庭』(1962年)だ。ちなみにバッサーニはモランディの友人にして彼の芸術の称賛者のひとりであり、1947年発表の詩集『光の消ゆる前に(Te lucis ante)』ではモランディの風景画に捧げた詩「モランディの絵画のために」[*2]を発表している。若き日にはボローニャ大学で美術と文学を修め、第二次世界大戦下ではファシズム政権に抵抗したレジスタンス活動家のひとりでもあった。
 『フィンツィ・コンティーニ家の庭』はバッサーニの幼年~青年時代が投影された自伝的作品で、舞台は第二次世界大戦勃発前後のフェッラーラ。主人公ジョルジョとユダヤ系の富裕層フィンツィ・コンティーニ家の交流を描いた青春小説である(ただしここでの青春は輝ける生を謳歌するような類のものではなく、拭いがたい死の影を随所に感じさせる薄暗い青春なのだが)。主人公ジョルジョは文学や美術に造詣が深い人物として描写されており、美術史家ロベルト・ロンギのもとで学ぶことを希望しながらその夢が断たれたために文学に転向したというエピソードや、フェッラーラ出身の画家、フィリッポ・デ・ピシスを「われわれのデ・ピシス」と親しみを込めて呼ぶシーンからは、バッサーニ自身が志向する近代的な芸術観を垣間見ることができる。そして作中にモランディが「登場」するのはただ一度、ジョルジョが知人のマルナーテと芸術談義を繰り広げる際に名前が挙がるだけの存在なのだが、ここでのモランディは「否定に基づく詩」を排斥しようとするマルナーテによって、あたかも現実の恐怖に屈して私的な世界に逃避した画家であるかのように非難されるのである。マルナーテはジョルジョに向かって次のような私見を述べる。「詩人たる者は、憎むべき自然と死に立向わねばならない。モランディの絵も感心しない。洗練され、非常にデリケイトであるが、あまりに《個人的》、《主観的》、《絶望的》にすぎる。モランディの死んだ自然、あの有名な花や瓶の絵の底には、現実への怖れ、あやまることへの怖れがひそんでいる。芸術にあっても、恐怖は最悪の助言者である。」[*3]
 登場人物の口を借りて吐き出されるモランディへの辛辣な批判は、もちろん主人公≒バッサーニの同意するところではないだろう。深く敬愛する画家への否定の言葉を目の前で吐かれた主人公ジョルジョは心の中で反感を抱くのだが、しかし反駁の手立てを見出だすことができず、一種の無力感をおぼえながら沈黙に留まる。向けられた刃に反駁しないという主人公の陰画的(ネガティブ)な応答は、ある意味でモランディ的身振りに通じているようにも思える。
 さて、ここまで『ボローニャの夕暮れ』『フィンツィ・コンティーニ家の庭』といったフィクションの世界の登場人物を手がかりに、時代や外界に対する「モランディ的身振り」なるものを確認してきた。改めて言うまでもなく、モランディは現実の社会状況に対するメッセージや抵抗の態度を作品によって具体化することのない画家だった。第二次世界大戦下の1943年5月23日にはレジスタンス運動の容疑で逮捕・拘束され、穏やかで節度のある暮らしを願い続けてきた画家の人生にとっては例外的な「事件」を体験するも、逮捕の理由はレジスタンス運動のメンバーがモランディの知人であるという程度のものだった。一方で同時代のイタリアには抵抗の姿勢を作品において表現した画家や彫刻家たちがいた。たとえば《神は我らと共に(Gott Mit Uns)》と題した水彩画のシリーズでナチスの大量虐殺を真っ向から非難したレナート・グットゥーゾ、逆さ吊りにされたキリストの図像にパルチザンの死を重ね合わせて戦争の悲劇を告発するレリーフを手掛けたジャコモ・マンズーなど。彼らのような「抵抗の芸術家たち」に比べると、確かにモランディは世間の喧騒から距離を置いて自室アトリエに閉じ籠った「僧房のなかの修道士」に過ぎない。しかし私たちが忘れてならないのは、モランディとて暗鬱とした社会状況がもたらす負荷から免れていたわけではまったくなかった、ということだ。身の回りの質素なオブジェをわずかな差異にこだわって構築し続けたモランディの一見限りなく内向きに見える営為のなかに、当時の政治・社会状況への何らかの「抵抗」を見ることも不可能ではないかもしれない。「抵抗」という言葉が不相応に感じられるのであれば、外界への何らかの「応答」(あるいは「非応答」)と言い換えてみてもよい。
 1943年の夏、連合軍による空爆はモランディの故郷・ボローニャの街並みに深刻な被害をもたらした。幸いモランディ家の住むアパルトメントが損傷を被ることはなかったものの、一家はボローニャから南西30km離れた場所にある寒村地グリッツァーナに避難し、そこでの疎開生活を1944年の9月まで余儀なくされた。そしてちょうど40年代の半ばを境目にモランディの絵画にも重要な転換期が訪れる。40年代の初頭から類似構図を繰り返し描くいわゆる「連作」が増え、白いオブジェの多用、オブジェを真ん中に寄せ集めた求心的な配置とそれに伴う周囲の余白の増大、正面性を強調する構図など、その後のモランディ作品の「基調」となるスタイルがあらわれはじめていたのだが、グリッツァーナからボローニャに戻った40年代後半になるとスタイルはいよいよ成熟期に向かい、年間に手掛ける作品点数が飛躍的に増加する[*4]。この40年代前半/後半の転換は慎重に読み解く必要がある。注目すべきはスタイルの揺籃期である40年代前半、「基調」の布石となる《静物》が制作される一方で、モランディの画業全体を振り返っても「異変」と呼べそうな作品群が手掛けられていることである。
 市民生活を圧迫する社会的背景があり、また作品の重要な転換期だったという二重の意味で、1940年代のモランディ作品は非常にクリティカルなものである。とりわけ第二次世界大戦中のモランディ作品の「異変」について考えることは、モランディが現実に対して送り出したサイン――「非応答」という逆説的な応答の在り方――を考えることにきっと繋がるはずである。それでは具体的な作品分析に移る前に、当時の社会状況とモランディの足取りを確認しておこう。


グリッツァーナと「風景」

 「わたしは目下、ほとんど仕事をしていません。それどころか、まったく何もしていません。わたしの仕事にとって不可欠の静寂さが、もはやどこにもないのです。毎日、飛行機がここの上空を飛んでいきます。爆弾を落とさないときでも、散弾を浴びせあっています。こんな状況下で、絵のことを考えていられるかどうか、ご想像いただけることでしょう。」[*5]
 これはモランディがグリッツァーナに疎開中の1944年5月12日、画家で詩人のマリオ・ベッキスに書き送った手紙である。寡作家ではあるが常に制作のことを第一に考え続けてきたモランディが、なんと「ほとんど仕事をしていない」と述懐し、絵についてまともに考えることができない状況を覆い隠さず嘆いているのだから、当時の生活がいかに切迫したものであったか想像するのはさほど難しくないだろう。空襲続きのボローニャを逃れて1943年の6月からグリッツァーナの別荘“カーサ・ヴェジェッティ”へと移ったモランディ一家だったが、アペニン山中にある静かな寒村はもはや都市より生活が保証される安寧の地ではなくなっていた。1943年9月、イタリア王国が連合軍に降伏してからも戦局は収拾に向かうどころか混乱を極め、イタリア北部を占拠したナチス・ドイツ軍とシチリアに上陸した連合軍が苛烈な内戦を繰り広げていたのだ。とりわけアペニン山脈付近にはドイツ軍の防衛線「ゴート・ライン」が張られ、1943~44年にはボローニャどころかグリッツァーナの上空にもドイツ軍の飛行機が飛び交うようになり、近郊の小さな村ではパルチザンやレジスタンスへの報復としてドイツ軍による一般市民の虐殺事件が立て続けに起こった。
 この時期にモランディが知人たちに送った手紙を見てみると、検閲のせいで速達が遅配となり、たびたびの警報で制作がままならず、ひどいときには爆弾が自分たちの家のすぐ近くまで迫るなど、制作どころか生活環境すら危ぶまれる様子が明らかになる。カーサ・ヴェジェッティの別荘には限られたオブジェと画材しかない上に、この頃悪化した持病のリューマチがモランディの仕事のさらなる障害となっていたようだ。
 それでもモランディは手元にある少ないオブジェに異様なまでの集中力で臨み、特筆すべき最高レベルの作品をこの時期に残している。連作への意欲が高まるのはグリッツァーナ疎開前からのことで、1941年にはすでに類似構図による5~7点前後の《静物》の連作が続けて手掛けられているのだが[*6]、戦中のモランディが瓶や箱といったお馴染みのモチーフ以外も積極的に描いていたことは覚えておく必要があるだろう。なかでも代表的なのが、1942~43年頃制作の17点に及ぶ貝の連作である(v.433~v.449)[*7]
 以前にも貝をモチーフに用いたことがあったとはいえ、複数の貝をメインに据えたコンポジションはモランディの画業全体をみても珍しいものであり、暗褐色を基調とした薄暗い色調、不規則にうごめく奇妙な筆触と相俟って人目を引く。そして「異変」のサインともいえるこれらの作品に戦争による不安の影を読み取る論者も決して少なくはない。たとえばモランディが教鞭を執ったボローニャの美術アカデミアの卒業生であり、モランディにまつわる重要なモノグラフを2005年に刊行したジャネット・アブラモヴィッチは、「戦争中に描かれたモランディ作品の一部は彼の絵画歴の中でも最も美しい作品の部類に属する」[*8]とし、とりわけ1942~43年の貝の連作については「おそらく貝殻と激しく鞭打たれる肉体との間の類似性に興味をそそられた」と画家の関心事に大胆な推測を提示しながら、「モランディの生命のない貝殻類はのたうち回るような有機的な形態に発展していくが、それはおそらく彼の周りで起こった恐ろしいできごとの陰鬱な表現なのである」[*9]と主張している。アブラモヴィッチの主観に傾いた解釈にも思えなくもないが、彼女が美術アカデミアで師弟としてモランディと直接の関わりを持っていたこと、また戦時のエピソードを伝え聞いていたことなどを考慮すれば、貝殻に受難の肉体を重ね見る解釈も何らかの裏付けあってのことなのかもしれない。またアブラモヴィッチは1981~82年にアメリカ初の大規模なモランディ回顧展[*10]が開催された際、約120点の出品作のうちに貝の連作が一点も含まれていないことを『アート・イン・アメリカ』誌のレビューで批判しており、この点からも戦中の貝の連作をいかに重視しているかが窺い知れる[*11]
 一方、同じ頃に集中的に制作された主題で貝の連作同様にしばしば取り沙汰されるのが「花」の連作である(v.249~v.255、v.347~v.359、v.361、v.405~v.415、417)。《花》は1920年代にも集中して取り組まれた主題だが、1930年代になるとその制作はピタリと止み、1940年代に到って再び描かれるようになる。モランディと交流のあった音楽評論家のルイジ・マニャーニは、戦中のモランディの花の作品をいくぶん文学的な調子で記述する。「1942年のバラの絵(v.361)は紫に色づきはじめ、その影は悲しみと哀悼の礼拝にかたちづくられている。一枚の内気な葉っぱはおずおずとブーケから顔を出す、緑色のタッチ、束の間の休息、禁欲的な簡潔さにおける厳格な哀歌の唯一の吐息として」[*12]。花という主題では、静物では試せない色調や筆触の実験をモランディがすすんで行っていたふしが見受けられる。マニャーニが見出した悲哀の感情も含め、何らかの情緒を乗せるのに格好の主題がモランディの花であったのかもしれない。
 しかし、貝や花、そのほかの静物以上にモランディの「異変」をサインとして送り出す主題は、おそらく風景であったと考えられる。
 そもそもモランディとグリッツァーナの風景との結びつきは非常に強い。画家が初めてこの地を訪れたのは23歳のとき、ボローニャの美術アカデミアを卒業した年のこと。妹のアンナが学校で怪我をし、自宅療養中に招いた家庭教師にグリッツァーナでの避暑を勧められたのがきっかけだった。家庭教師を通じてグリッツァーナ市長ヴェジェッティ一家の知己を得てからは、毎夏のようにこの地を訪れて風景画に集中して取り組むのが恒例となる。1929年にはカンピアロ付近のカーサ・ヴェジェッティを別荘として借り、夏の制作の拠点とした[*13]
 グリッツァーナは決して風光明媚な観光地ではない。目につくものといえば、荒々しい山肌、曲がりくねった素朴な小道、簡素な白壁の家が点在するくらいで、時折吹き抜ける土埃混じりの風は、画家の視界をかすませることもしばしばあっただろう。とはいえ虚飾を嫌ったモランディがあまり開拓の進んでいないこの地の素朴な美に惹かれたのはなんとなく腑に落ちることである。グリッツァーナの現在の景観がわかる動画とモランディの風景画を比較してみれば、画家が他に代わりのきかない風景としてこの土地を愛し、木々や丘陵地帯の特徴を驚くほど的確にうつしとっていることに気づかされるはずだ。誤解を怖れずに言えば、モランディの風景は対象に忠実な「写実」なのだ[*14]
 モランディの風景制作の方法についても触れておくべきだろう。モランディはアトリエの窓から風景を見て描いたとか、あるいは双眼鏡を使って遠くの景色を眺めていたというのはよく紹介される逸話だが、マリア・クリスティーナ・バンデーラによれば、これは一部の論者(チェーザレ・ブランディ、ルイジ・マニャーニ)の説が繰り返し引用されたために流布した偏った情報であるという[*15]。窓からの眺めを描いたり双眼鏡を使っていたのは事実だが、すべての風景画がそのように制作されていたと考えるのは早急ということだ。「隠遁の画家」のイメージとはかけ離れるが、意外にもモランディは戸外制作を行う画家であり、風景を手掛ける際にはまず周辺をよく散策し、その土地を知ることから始めていたのである。グリッツァーナではもちろんのこと1930年代の後半に訪れていたロッフェノでも散策は恒例だったらしく、特注イーゼルと画材の入った鞄を持って散策するモランディの姿は地元の人々によって語り継がれる「伝説」となっている。
 1955年7月、アメリカの米国広報文化局USIS(United States Information Service)が行ったラジオ・インタビューで、モランディは自身の芸術観の根幹を語った。「自然、つまり目に見える世界を表現することは私が最も興味のあることだと思います」[*16]。また別のインタビューでは風景画への思いを率直にあらわした貴重なコメントを残している。「私が風景より静物を多く手掛けてきたのは事実です――風景のほうがもっと愛していたというのにね。それでも、いろんな場所を旅したり滞在したり、仕事を仕上げるために家に戻ったりするのは必要なことだったのです。サヴェナの谷を散策しては河べりのあちこちで足を止めたり、夏にはロッフェノやグリッツァーナも訪ねていました。」[*17]
 モランディが生涯で制作した油彩約1400点のうち、風景が占める割合は約4分の1である。これを多いとみなすか少ないとみなすかは人それぞれ、「静物を繰り返し描いた画家」のイメージがどれだけ浸透しているかにも拠るだろう。ただし、1940年代前半までは静物と風景の制作比率はあまり差がないことは明記しておく必要があるだろう。ともあれ風景は静物と同じくモランディの目の前に存在する裸形の現実であった。さらに言うならば、風景はモランディの目の前に在るだけでなく、画家を存在ごと抱きこむ創造のトポスだった。そしておそらくモランディは、静物に対して以上に、自己を失わんばかりのファナティックな欲動に突き動かされて風景に向かっていたのではないだろうか。
 さて、問題の第二次世界大戦下ではイタリア軍州参謀本部の許可証なしに屋外で制作することは認められていなかったため、この時期モランディは文化財保護局に勤める知人の美術史家、フランチェスコ・アルカンジェリに許可証入手の協力を求める手紙を送っている。「この春のあいだじゅうずっと何も描けないということになると、まったくうんざりしてしまいます」(1944年3月26日、アルカンジェリ宛の手紙)[*18]。身辺を取り巻く状況は相変わらず厳しい。しかしそんな人間たちの事情などおかまいなしかのように、モランディいわく、「グリツァーナの風景は、時節柄、どんどん美しくなっていきます」(1944年4月4日、アルカンジェリ宛の手紙)[*19]
 戸外にイーゼルを立てて制作することが完全にできなくなるまでモランディの風景画制作は続いた。参考までにグリッツァーナ疎開前後の作品点数をいま一度確認しておこう。

・1941年 風景31点、静物34点
・1942年 風景17点、静物44点
・1943年 風景24点、静物45点
・1944年 風景3点、静物7点
(データはランベルト・ヴィターリのカタログ・レゾネ第2版に基づく)

 さすがに1944年ともなると制作ペースは年間10点にまで落ち込む。風景はわずか3点。とはいえその内容は特筆に値するものであり、ロベルト・ロンギ、フランチェスコ・アルカンジェリといった同時代の批評家たちをはじめ多くの論者がこの時期の風景画を重視した。ロンギは1966年、つまりモランディの死後2年の年に発表したテキストでこのように語る。「モランディは自分の道をひたすら進んでいたが、1943年の風景画で彼はまさに頂点――それが彼の絶頂であったと考える――に達したと思われるが、不幸にも、それは戦争中のことであった」[*20]。またアルカンジェリは同時期の花、貝、静物の連作に言及しながら、感嘆詞混じりの賛辞を贈る。「なんて偉大な季節だろう、ボローニャ、そしてグリッツァーナの時期のモランディの作品は!」[*21]。近年では2010年にイタリア・アルバでモランディの風景画に焦点を当てた回顧展「ジョルジョ・モランディ : 風景の本質(Giorgio Morandi : L’essenza del paesaggio)」が開催されたが、企画者のマリア・クリスティーナ・バンデーラは、1944年(v.481)のモランディにしてはめずらしい雪の風景画を「彼の絵画における真の最高潮」として高い評価を与えている[*22]
 静物も風景も望むように描けない時代、それはモランディにとってどのような時代だったのだろうか。マリレーナ・パスクァリはグリッツァーナ時代のモランディを論じたテキストのなかで、モランディにとっての1943~44年という時代を「ファシズム政権が思考のカテゴリーに最優先の事項として押しつけてきた“行動の文化”を否認するためには充分に必要な瞑想の時期」と定義している[*23]。高射砲の砲撃がグリッツァーナの空を飛び交うときにも、モランディは戸外制作の必要性を強く感じていた。とはいっても無論、風景画の空の部分に文字通りに飛行機を描きこむことを望んでいたわけではなかっただろう。モランディの風景には飛行機は当然のこと人影ひとつ描き込まれることはなかったし、山中に佇む白壁の家ですら住む人間のいない空き家を思わせるところがある。送電塔などごくわずかな例を除けば、モランディの風景に人々の営みを推測させる文化的尺度や時代を特定できるような要素は描かれないのである。
 その寡黙さにもかかわらず、モランディが描くグリッツァーナの澄み切った水色の空が、これほどまでの喚起力を備えているのはどういうことなのだろうか?
  「1943年の風景についてはとりわけ空を見れば十分なのだ」[*24]とはよく言ったものだ。雲ひとつなく沈黙に留まった空、それは同時に画布へと浸食していく顔料であり、あらゆる表象を蒸発させるような希薄な絵具の拡がりである。1940年代前半の風景画の特徴として、放縦な筆触、くぐもった色調、絵具の薄塗り化が挙げられる。薄塗りの絵具はときに画布の織目や地色さえもあらわにし、さらには画布の織目・地色を非物質的なイメージのレベルへと吸収して、物質/非物質のあわいを漂うような特異なマティエールをつくりだす。画布そのものと溶け合うようなマティエールやくぐもった色調が物語るのは、キャンバスや絵具といった現実の与件すらもおのがヴィジョンと同様、不確かなイメージに過ぎないものとして接する徹底した主体の疎外状態である。モランディは表象が崩壊する寸前まで「描く」行為を切り詰めていったかのように見える。「描く」行為に付随する空虚、そしてその空虚を崩壊寸前で保持すること。矛盾した言い方が許されるならば、ここには空虚が充溢している。至極透明で純度の高い風景ながら、現実に対する否認の意志が張り詰めているのだ。「沈黙する者は他者にとって不透明となる」[*25]というスーザン・ソンタグの言葉が思い出される。沈黙、すなわち他者に対して内面を秘匿することは、不透過性によって主体を他者の目からくらますことである。モランディの風景にはモランディが隠れている。ただし、モランディという固有名詞を健忘症のように散逸させて。通り抜けることのできない不透過性のヴェール――ともすれば蒸発しかねない揮発性のヴェール――、それこそがモランディの戦中の風景の正体であり、外界に対する応答/非応答の究極的な形態なのだ。
 画面に一切の時代の徴しを持ち込まないということ、そして社会的なメッセージから距離を置くということ。こうした非‐政治性はときに、通常の政治性とは異なったレベルでの政治性へと転ずることがある。たとえば岡崎乾二郎のモランディ評は静物のみならず風景にも通じる解釈として読むことができるだろうし、モランディ作品における現実への「抵抗」を見出す手掛かりとなるだろう。モランディの静物における一列に並んだ瓶たちは確かに人柱のバリケードを連想させるところがあるが、しかしそうしたモチーフの擬人化的解釈以上に注意を払うべきは、モランディの絵画が「知覚のバリケード」を備えていることなのだ、と。
 「むしろ問題とされるべきは無特性に留まることの権利である。事物が事物として存在することの権利。人が注視する、空っぽの花瓶は空っぽですら無い。そこに中身が無いのではなく、いかなる特定された内容物を充填する余地もない(侵入不可能)、ゆえにそれは空っぽと見なされる。だからそれは空ですら無い。内容が無いのではなく、そもそもいかなり内容にも置換不可能、その代入可能性が無い。特定化不能=無特性。人間であればこの『平板さ』は(感情移入不可能な)無表情とみなされるだろう。」
 「絵だけが(モランディだけが?)立ち留まることのできた、いかなる中身(属性)も持たない――薄っぺらで貧しい――充実。空間の消去=占拠。感覚的貧しさがもたらす感覚の強度、このパラドックス。だから正確に言い直せば、知覚の麻痺=知覚のゼネスト。」[*26]


モランディの「白」

 多くを語ろうとしないモランディの失語症的性向は作品タイトルにもあらわれている。静物画は《静物(Natura Morta)》、風景画は《風景(Paesaggio、もしくはPaesi)》とシンプルに名付け、タイトルに余計な説明を加えないのが画家の信条だった。ただヴィターリのカタログ・レゾネを確認すると、いくつかの例外も散見される(《サボテン(Cactus)》《ヴィア・フォンダッツァの中庭(Cortile di Via Fondazza)》など)。モランディ本人が付けたタイトルなのか、同時代あるいは後世の研究者たちが便宜的に付けたタイトルなのか詳細は不明だが、ここで取り上げたいのは同じく「例外的」なタイトルである風景画の連作《白い道(Strada Bianca)》である。
 この連作の端緒となったのは1939年の作(v.248)。その後、間を置いて1941年に類似構図の《白い道》が3点制作された(v.339、v.340、v.341)。モデルとなった場所はグリッツァーナ付近のカンピアロである。白い道、そしてレンガ色の屋根の家並みが右手に向かって収束していく構図はどれもほとんど同じであり、キャンバスの大きさや画面の縦横比、空や道の領域の取り方に少しの変化が見られる。遠近法のセオリー通りに一点に向かって空間が奥まっていく構図は、正面性にこだわるモランディの作品としてはめずらしい部類と言えよう。
 ところでモランディは、《白い道》のなかの道がどこかへ続くことを果たして望んでいただろうか? というのも、観賞者の視線を奥へと誘う遠近法的な構図とは裏腹に、《白い道》は「深さ」を演出するどころか、水中を泳ぐような筆触とヴェールめいたマティエールによってイメージを「表面」に留めているかのように見えるのである。《白い道》における道は、「この道はどこかへ続く」という「通行可能性」を示唆すると同時に遮断している。モランディの1933年のエッチング《白い道》について語った詩人イヴ・ボヌフォアの言葉を借りるならば、この道は「走り抜けることのできない」(もしくは「入り込むことのできない」)という印象さえも与える[*27]。そして、戦局の悪化によってボローニャ-フィレンツェ間の鉄道が爆撃の対象となって移動がままならなくなり、フィレンツェに住む友人たちと会うことが簡単に出来なくなったモランディにとって、《白い道》以降の風景は、予定外の長い逗留を強いられたグリッツァーナという封鎖域における生存の証言へと変質する。振り返ってみれば、《白い道》は、グリッツァーナ疎開前にかろうじてつなごうとした世界への通行可能性の象徴であり、沈黙のなかの希望であり、諦念であり、あるいはモランディの意識が滞留する反‐世界的な瞑想の場だったのかもしれない。
 これらの連作のうちで、とりわけ高い完成度を誇るのが1941年の《白い道》(v.340)だろう。タイトル通りこの絵の主役は中央に敷かれた「白い道」なのだが、この白の明るさは太陽の照り返しがもっとも強くなる時間帯(たとえば正午)に由来しているのだろうか。その白は空の青さすら撥ね返しそうな触れがたい虚の領域を形成しており、およそ実体を感じさせない。「実体を感じさせない虚空間としての白」は、《白い道》に限らず、1930年代後半から1940年代前半にかけての風景画に頻出する。モランディが繰り返し描いた家の白壁として(v.214、v.471など)、あるいは何かの人工物なのか単なる間隙なのかも判別つかない矩形の区画として(v.271など)。やがて、グリッツァーナという封鎖域のなかで、画面を占める「白」は微細に階調を変化させながらより虚実曖昧で確定不可能な領域へと変質していくだろう。空と同様、「充溢する空虚」としての白がモランディの絵画の中枢となるのである。
 1944年9月、14ヶ月に及んだグリッツァーナ滞在を経てようやくボローニャに戻ったモランディは、その後14年間のあいだグリッツァーナを再訪することなく、風景という主題を棄ててアトリエの静物に集中した。風景を占めた「充溢する空虚」としての白は、瓶や箱といったオブジェの固体色として、今度は《静物》に胚胎する。1940年代のモランディ作品を論ずる際、静物画における「白」はこのような変遷を経たものと踏まえた上で見ていく必要があるだろう。
 大きく迂回して、ようやく1940年代の作品分析に移る準備が整った。つづく後編では、モランディの1940年代の静物に焦点を当てる。「沈黙」「隠遁」といった言葉で繰り返し語られてきた画家の精神性、そして外界に対する応答/非応答の態度は、作品には具体的にどのような徴しとしてあらわれているのだろうか。造形的な要素に注目して分析を進めてみたい。

後編につづく)




[*1] プーピ・アヴァーティ監督作品『ボローニャの夕暮れ』(2008年、イタリア)は日本では2010年に公開された。
[*2] ジョルジョ・バッサーニがモランディの風景に捧げた詩「モランディの絵画のために(Per un quadro di Morandi)」は以下の作品集に収録されている。Giorgio Bassani, OPERE, Mondadori, 1998.
[*3] ジョルジョ・バッサーニ『フィンツィ・コンティーニ家の庭』大空幸子訳、新潮社、1969年、173頁。
[*4] 制作をはじめた1910年代から1930年代まで、モランディの一年あたりの制作点数は静物・風景・その他の主題を合わせても20点に満たない。15点を超える年も1924年、1929年、1935年、1938年のみである。比べて1940年代は連作を中心に年間制作点数が増加する。
1940年 静物21点、風景14点
1941年 静物34点、風景31点
1942年 静物44点、風景17点
1943年 静物45点、風景24点
1944年 静物7点、風景3点
1945年 静物10点、風景0点
1946年 静物55点、風景0点
1947年 静物34点、風景2点
1948年 静物76点、風景0点
1949年 静物43点、風景0点
以上のデータはランベルト・ヴィターリのカタログ・レゾネ第2版(1983)に基づいてカウントした。花、貝などの主題は静物に含め、「1940~1941年」など2年にまたがる表記の場合は完成年とおぼしき翌年の作としてカウントした。
[*5] 岡田温司編『ジョルジョ・モランディの手紙』みすず書房、2011年、77頁。
[*6] 1941~43年の静物の連作分析については岡田温司による日本初のモランディの重要なモノグラフ『モランディとその時代』を参照(98~112頁)。
[*7] 第二次世界大戦中の貝の連作(v.433~v.449)について、ヴィターリのカタログ・レゾネでは1943年制作の17点が確認できるが、モランディ研究の第一人者であるマリレーナ・パスクァリはしばしばこの連作を1942~43年の冬制作と記述している。正確な制作時期がグリッツァーナ疎開時/疎開前なのかは不明。
[*8] ジャネット・アブラモヴィッチ『ジョルジョ・モランディ 静謐の画家と激動の時代』杉田侑司訳、バベルプレス、2008年、186頁。
[*9] アブラモヴィッチ、同書、199頁。
[*10] 1981~1982年にサンフランシスコ近代美術館、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、デモインアートセンターの3館を巡回した。展覧会カタログは以下を参照。Giorgio Morandi, Des Moines Art Center, 1981.
[*11] Janet Abramowicz, “The Liberation of the Objects”, in Art in America, Mar.1983, New York, p.138
[*12] Luigi Magnani, “Portrait of Morandi”, in Giorgio Morandi, Des Moines Art Center, 1981, p.13
[*13] モランディが初めてグリッツァーナを訪れたのは1913年。第一次世界大戦中と終戦後はしばらく訪問しなかったが、1927年に家族全員で再び同地を訪れ、1929年に別荘を借りている。1930年代前半の毎夏をグリッツァーナで過ごし、1934~1938年はロッフェノに滞在した。
[*14] グリッツァーナの景観が確認できる動画は以下を参照。モランディの没後50周年の際に製作された短編映画「Modus Morandi」予告編〈http://www.arte.rai.it/articoli/in-ricordo-di-giorgio-morandi/25180/default.aspx〉;モランディのドキュメンタリー映画「La polvere di Morandi」予告編〈https://www.youtube.com/watch?v=9qRWPo9QHpg〉 (accessed 2015-8-1).
[*15]  Maria Cristina Bandera, “E dire che i paesaggi li amavo di piu”, in Morandi : L'essenza del paesaggio, Fondazione Ferrero, Alba, 2010, p.24.
[*16] Ibid., p.1.
[*17] Ibid., p.29.
[*18] 岡田編、前掲書(*5)、74頁。
[*19] 同書(*5)、75頁。
[*20] 岡田温司監修『ジョルジョ・モランディ』FOIL、2011年、44頁。
[*21] Francesco Arcangeli, Giorgio Morandi,(1964), Einaudi, Torino, p.301.
[*22] Bandela, op.cit(*15)., p.25.
[*23] Marilena Pasquali, Giorgio Morandi : Saggi e Richerche 1990-2007, Noedizioni, Firenze, 2007, p.94.
[*24] Ibid., p.163.
[*25] スーザン・ソンタグ『ラディカルな遺志のスタイル』川口喬一訳、晶文社、1974年、25頁。
[*26] 岡崎乾二郎「知覚のバリケード」、『ジョルジョ・モランディ』、前掲書(*20)、147頁。
[*27] 清水茂「ふたつの『モランディ』―イヴ・ボヌフォワのある改稿をめぐって」『早稲田フランス語フランス文学論集』6号、早稲田大学文学部フランス文学研究室、1999年、45頁。



2015/08/08


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