展評 : 小崎哲太郎
東京藝術大学卒業・修了作品展 絵画棟115号室(2007年2月21日~26日)



 誰もいないアトリエ、不在の作者に代わって立ち現れたのは、一枚のタブローに描かれた百済観音のようなからだつきの裸体像だった。

 都美術館、陳列館、大学美術館から学内アトリエまでを使い、数ある美術大学のなかでも最大規模のものとなる東京藝大卒業・修了作品展。なかでも院生一人にアトリエ一室分のスペースが割り当てられる絵画棟は、ソロ・エキシビションの集合体とでも呼べるような展観となる。
 都美術館や大学美術館とは対照的に思いのほか人の往来が少ない絵画棟、ガランとしたアトリエで静かに佇んでいる作品群を見て廻っていると、作品を見せるための場を対外的に設える美術館やギャラリーと違って、アトリエとは特殊なトポスを形成するものなのだと実感させられる。制度(美術館、ギャラリー)への反動からアトリエというトポスに自然性を見出すのは、少し素朴すぎる考えかもしれない。しかしアトリエに結び付けられるイメージ――作品が生まれ育っていく母胎としてのイメージ――を思い起こすとき、そこに掛けられる絵画もまた、名付けられる以前の野性の姿を露わにすることがあるのでは、と夢想せずにはいられないのだ。

 こんなことを考えたのも、上野の山の喧騒とは無縁であるかのように、絵画棟一階の奥まった場所にあるアトリエで無私の幻想世界に深く沈滞する小崎哲太郎の絵画を見たからである。
 壁に掛けられているのは風景や人物などをモチーフとした計六点の油彩画。まず目を奪われたのは、〈立像〉と題されたタブローだ。茫洋とした水色を背景に画面の中央で佇んでいるのは、まばゆい白の肌を持つほっそりとした裸身の男性である。空間とのせめぎ合いで異様に小さく削られた頭部、縦長に引き伸ばされたプロポーションからして、特定の人物(例えば作者)を模したというよりは、幾らかのデフォルメを経た先におのずとそのかたちに落ち着いた自律的な像のように見える。そして画面に大きくとられた余白のため、この像は虚空のなかで孤立している印象を与える。柔らかくしなをつくる仕草は中性的で、とりわけ繊細なのは心持ち俯いた顔の描写だ。閉じられたまぶた、軽く結んだ口元、アルカイスムにも通ずる微かな震えを帯びた表情は、たちまち死顔のイメージと結び付く。タブローの隅々まで充満する虚空は、全てこの死顔のイメージに還元されると言えよう。

 死/虚空のイメージ性においても頭部がタブローの求心的位置を担うのは確かだが、頭部が独立した印象を持つのはそれが胴体との関係性に断層を孕んでいるためでもある。空間の中から像を彫り起こすように、胴体を捉えるタッチが木彫の鑿の動きにも似た的確な人体把握を行っているのに対し、後頭部と肩を決定するラインは背後に回り込む空間を感じさせず、扁平である。結果、首から上がタブローの平面性に押し込められる(圧縮させられる、埋没する)のだが、これはおそらく内的必然性に従っての造形処理だろう。斜に構えた胴体は、タブローの「奥に」沈んだ頭部、遠ざかっていく死顔のイメージとの相互作用で、自らをタブローの「前面へ」と出現させる。無重力状態にあるかのようにポーズを静止させている像が、表面と奥行きを往来する空間のイリュージョンの中で、虚空を一挙に背負って浮かび上がるのである。このとき、像の自律性とタブローの自律性は同時に発生している。

 イメージの発生とタブローの発生を同期的なものと見なすとき、あるいはイメージがタブローを占有できるか否かに絵画の自律性がかかっているとき、肝要なのは描かれた事物を静態として把握するのでなく、イメージの生成において捉えなおすことである。イメージの生成を捉えるためには、一枚のタブローと別のタブローとのあいだを循環する不可視の想像力にも注意を傾ける必要があるだろう。

 〈立像〉から目を転じると、壁の上方に〈頭部〉というタイトルの作品が掛けられている。タイトル通り、茫洋とした背景の中に切り離された頭部だけが浮かんでいる絵だ。ここでのイメージは〈立像〉と比べても一段と非理性的な領域に差し掛かっている。頭部は虚空を穿ちつつ出現し、タブローを天蓋化する。飛翔のイメージが頭部に託されるのでなく、イメージが飛翔しているのだ。
 そしておそらく、〈頭部〉とは対極のイメージをあらわすものとして繰り返し用いられるモチーフが舟である。水面を滑る一そうの舟を描いた〈小舟〉は壁の低い位置に掛けられることで、滞留のイメージを増長させている。舟の舳先に〈立像〉の似姿である青年が佇んでいる〈人と舟〉にせよ、舟が描かれた作品には内面に錨を下ろして瞑想へと到る自己観照の態度が共通している。とすれば、舟は作者が描く行為のさなかにあることを具現化したメタファーとも考えられないだろうか。タブローに分け入ろうとする筆先は舟の舳先となり、作者はこれによって創造の深みへと誘導されるのである。

 見る者のからだを包み込むほどの大作である〈風景〉は、いっそう素晴らしい完成度に到達している。
乱立する木々越しに頂きの霞んだ山並みが見える場面の作品だが、これがほとんど淡い緑のグラデーションのみで描かれているのだ。結果、視覚にベールがかかったようなおぼろげな映像になっているが、そのぶん個々のタッチの見え方が充実している。タッチが表象されたイメージを被覆していると言い換えてもいい。タッチを重ねれば重ねるほど表象された風景が蜃気楼めいて遠ざかるという逆説。しかしこの逆説こそが、タブローに(物理的な意味とは別の)深みを与える理由となっている。描かれた場所が実在するのかどうか、一体どこにあるのかは、もはや問題ではない。〈風景〉という最もシンプルな名詞を与えられたタブローは、作者の名に自己同一性を帰することなく、極めて純度の高い非人称のイメージ世界に向けてタッチを偏在させているのである。


2007/03/05
web complexより転載〈http://genbaken.web.fc2.com/art_review/2007/art_review070305.html〉


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