書評 : 大友真志写真集『GRACE ISLANDS―南大東島、北大東島』(KULA、2011年)

語らなければならない、しかしいつも言葉からすり抜け、語ることを困難にさせる作品というものがある。2011年を振り返り、そのような作品との接触があったかと問われれば、私はKULAより刊行された大友真志の初写真集を挙げる。
大友はこれまで自身の出身地である北海道の風景や、そこに住む家族のポートレートを主に手掛けてきたが、ここにおさめられるのは北の大地から遠く離れた沖縄の孤島・北大東島と南大東島である。タイトルは『GRACE ISLANDS』。graceという単語は辞書上だと「優美」「しとやかさ」「洗練」などの訳語が当てられるが、キリスト教の文脈で「慈悲」や「恵み」も意味する。ところが大友のとらえた大東島の姿はどうだろう。木々や雑草が野放図に生い茂る荒れ地、人影のまったくない畑や不気味に静まり返る水辺など、写されるのはどこか寂寞とした印象を漂わせる景色ばかり。おまけに密生する植物の葉先の一本一本や地面をびっしりと覆う石礫など、とめどなく充溢する細部が写真の表面をざわつかせ、見る者の心をなかなか落ち着かせてくれない。
これらの風景は一見するとgraceという形容からはかけ離れているように思える。しかしなぜだろう。現実から遊離した、張りつめた緊張感を湛える島の姿を見ていると、写真家によって手向けられたgraceの言葉が、まさに写真自体の質において、他に代わりがきかないほどしっくりと馴染んだものに思えてくるのだ。

「負の歴史を持つ大東島に、ポジティブな意味の言葉を与えたかった」。写真集のタイトルの由来を訊ねると大友はそのように答えてくれた。20世紀に入るまでほとんど未踏の無人島だった大東島は、わずか100年ほどのうちに開拓され、一社の製糖会社による統轄を受けてきたという複雑な背景がある。
ただし、大東島のこうした歴史を声高に語ること、大東島という固有名のもとに島の姿を表象することは、大友の写真の目指すところではないだろう。その写真において、大東島という場所性を強く喚起する要素は、むしろ抑制されているかに見える。
まず写真家は、モノクロ・プリントを選択することにより、抜けるような空の青さ、自然の色鮮やかさに象徴される「沖縄色」を封じた。画面にはここが何処であるかを示す指標がなく、風景はどこか匿名的だ。とはいえ、大東島という場所性の徴しがここから完全に拭い去られているわけではない。都市部にはあまりないような南洋らしい植生も所々に見受けられるし、奇妙に傾いだ枝々の草臥れ方は、それらが長きに渡って耐えてきたこの島特有の気候と風土を物語るものであるかもしれない。

前半に収録されるモノクロ・プリントは、クラシックな趣きも手伝って、人が足を踏み入れる以前の原生林、言うなれば開拓以前の大東島像とでも呼ぶべきものを錯覚させる。ただ単に人影が写り込んでいない、という以上に、ここには風景を征服しようとする主体的な意志が欠落している。代わりに意志めいたものを宿らせるのは何か。誰かに見遣られることがなくとも成長を続ける植物の成長力、繁茂のエネルギー、土壌から吸い上げられて具現化した島の生気だろうか。人間の眼差しに先んじてそれらは存在する。自明にも思えるこの現実を、認識が転倒したような脅威的な事態として、写真は突きつけてくるのだ。
だが、「まだ誰にも見られたことのない風景」という幻像は、ややもすれば一瞬で立ち消えてしまう。カメラは自然ばかりではなく人工物にも向けられ、この土地が完全に人の踏み込まない未開の地などではないことを証明するだろう。たとえば、草地に打ち捨てられた何かの建材、ドラム缶型の水タンク、畑に水を引くためのホース、古びた電信柱、製糖工場の建物や、コンクリート壁の小屋。島に関わる営みの半ばで、あるいは営みを終えておのれを投げ出す、妙に生々しい存在感を漲らせた事物たち。さらに写真集の後半になると重厚な陰影のイメージから一転、カラー・プリントが登場し、強烈なコントラストのない、中間的な調子が等しく行き渡るような明晰な視界へと移行する。沖縄色を避けるために曇り空の下で撮影が行われ、ほとんど平板な空の「白」が、大地から生起するエネルギーに浸食されるがままの無表情な「地」の役割に徹している。天候も時間帯も曖昧な中での、静かな覚醒。それでいて、細部を取りこぼさない異様なまでの解像度、視覚をひたすら鋭敏にするようなある種の過剰さは、カラー・プリントにおいても変わらない。
写真が捉えるのは、自然と人工、近代と前近代が入り混じる分水嶺だ。大東島の来歴が浮かび上がる場所があるとしたらそれは、ステロタイプな「沖縄像」に馴致されたイメージや記号などではなく、こうした非言語レベルのサインを孕んだまだらの地帯においてのことではないだろうか。

写真家による土地の探査にドラマチックな展開はなく、切り取られる景色はどことなく似たようなものが続く。島の全貌についての統覚もついには訪れない。風景はあたかも前後の時間から断ち切られたかのように、認識を初期化しながら、出くわしたときの衝撃を少しも減じることなくその都度眼前化する。
こうした感覚をおぼえるのは写真の構図のせいでもあるだろう。たとえば、アスファルト舗装のされない、土砂や小石を剥き出しにした小道の写真。この道は、訪れる者をどこかへ連れて行く、という予感をまったく抱かせない。その行く手は雑草に遮られ、奥行きへと向かう視線を断ち切り、むしろ道のほうから見る者の側に迫り出してきそうな圧迫感を湛える。また多くの構図では、繁茂する植物が前景を覆い、屹立し、訪れる者の侵入を阻むかのように視界を遮る。これらの風景は押し黙りながらこちらを見つめ返すひとつの相貌にも思えてくるのだが、それは人間とは噛み合わない種類の眼差しである。だから、風景と見る者のあいだには、物理的な意味に留まらない距離が、いつも介在している。

大東島はその地形においても特異な島だ。というのも、もともと珊瑚の隆起により生まれたこの島は、「幕(ハグ)」と呼ばれる岸壁によって周囲を取り囲まれ、海と陸地とを隔絶させているからだ。写真集の最後を飾る一点が、視線から少し離れた先で屹立する「幕」を捉えたものであることは、物語的な展開を持たないこの写真集らしい象徴的な着地点と言えるかもしれない。しかし注視するならば、外部への通路を断ち切る「幕」のギザギザした形態の隙間から、かすかに海が覗いていることがわかるだろう。大友の写真では、遅れて知覚される「細部」が、等閑視できない要素として、ときに画面の全体性を決壊させるほどの影響力を秘める。少し遠いところにあってなぜか妙な存在感を湛える名もなき野草、光を反射して白ヌキになった箇所、それらはいわば、風景の側からのサインとでも言うような、どうしようもなく視線が行き着いてしまう場所だ。そして何にも増して繊細な、水辺の表情…。
止まっていたかのように思える時間はここから緩慢に動き出し、ある種のこわばりにおいて結像していた島の姿は溶解する。風景を能動的に掴み、切り取り、征服しようとする主体的な眼差しは、もはや存在しない。「わたし」は消滅する。『GRACE ISLANDS』の写真群を見つめる体験に訪れるこのような瞬間にこそ、まさしくひとつの「恩寵(grace)」と呼べるのではないだろうか。


2012/01/04

※web complexより転載
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