1900 | ― | カルロ・カッラがパリ万国博覧会のパビリオンで展示。 |
アルデンゴ・ソッフィチ、パリに滞在(1907年まで)。万国博覧会で見た印象派の作品に衝撃を受ける。1903年にイタリアに一時帰国。 |
1901 | 4 | 第4回ヴェネツィア・ビエンナーレ。 |
― | パリに滞在していたジャコモ・バッラがローマに戻る。 |
1902 | 5 | カ・ペーザロ(Ca' Pesaro)に近代美術館開館(ヴェネツィア)。 |
― | ボッチョーニ、初めてパリを訪問。 |
1903 | 1 | 雑誌『レオナルド(Laonardo)』創刊(フィレンツェ)。批評家ジョヴァンニ・パピーニとジュゼッペ・プレッツォリーニ編集。 |
4 | 第5回ヴェネツィア・ビエンナーレ。イタリアで初めてシスレーを紹介。 |
― | ソッフィチ、パリでパブロ・ピカソ、ギョーム・アポリネール、マックス・ヤコブに会う。 |
1904 | 4 | ボッチョーニがパリに滞在。その後、ロシアを訪問。 |
1905 | 2 | 雑誌『ポエージア(Poesia)』創刊(ミラノ)。フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ、セミ・ベネッリ、ヴィタリアーノ・ポンティが編集。国内外の文学者を紹介するほか、自由詩を掲載。 |
4 | 第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ガブリエーレ・ダヌンツィオがイタリア象徴主義のセクションに展示されたレオナルド・ビストルフィの彫刻を称賛。 |
― | ◎「フォーヴィスム」の台頭(パリ)。 |
◎「ブリュッケ」結成(ドレスデン)。 |
1906 | 10.22 | ◎セザンヌ死去。 |
― | ジョルジョ・デ・キリコ、ミュンヘンの王立美術学校で学ぶ(~1907年)。ベックリン、クリンガーの絵画や、ニーチェ、ショーペンハウアーの哲学に傾倒。 |
アメデオ・モジリアーニとセヴェリーニ、パリに移住。10月に知り合う。 |
メダルド・ロッソ《この子を見よ》。 |
1907 | 4 | 第7回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ベルギーが自国パヴィリオンを建設。 |
6.14 | ペリッツァ・ダ・ボルペード死去(ボルペード)。 |
― | ジーノ・ロッシ、パリに移住。 |
マリネッティとボッチョーニが知り合う。 |
◎サロン・ドートンヌでセザンヌの回顧展(パリ)。 |
◎ピカソ《アヴィニョンの娘たち》。 |
1908 | 12.20 | 『ラ・ヴォーチェ(La Voce)』創刊(フィレンツェ)。ベネデット・クローチェ後援のもと、ジュゼッペ・プレッツォリーニが編集長を務める。教育、社会問題から文化関係まで幅広く扱う。パピーニ、ソッフィチ、ジェンティーレ、エイナウディなど知識人が寄稿。翌09年から、ソッフィチの連載が開始。印象派やセザンヌ、ロッソについて論じる。 |
― | ヴィットリオ・ピーカ『フランスの印象派』刊行。印象派がイタリアで注目されるきっかけとなる。 |
ボッチョーニ、ミラノに移住。広告やイラストの仕事を手掛ける。 |
◎ピカソとブラックがキュビスムの作品を制作。 |
◎ヴィルヘルム・ヴォリンガー『抽象と感情移入』刊行。 |
1909 | 2.20 | マリネッティ起草による「未来派の創立と宣言」がパリの日刊紙『フィガロ』の1面に掲載される。その後、『ポエージア』にイタリア語版掲載。+[引用を読む] |
4 | 第8回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ペリッツァ・ダ・ボルペード、ティート、ファットーリ、シニョリーニなどが展示。 |
― | この頃、デ・キリコが《秋の午後の謎》を手掛ける。 |
5 | 森鴎外抄訳「未来派宣言」が雑誌『スバル』に掲載される。 |