1900年以前
1850-55頃 |
― |
セラフィーノ・デ・ティヴォリ、ジョヴァンニ・ファットーリ、テレマコ・シニョリーニ、ヴィンチェンツォ・カビアンカなど、後に「マッキアイオーリ派(Macchiaioli)」と呼ばれる画家たちがカフェ・ミケランジェロの常連となり、芸術についての議論を重ねるようになる(フィレンツェ)。 |
1855 |
6 |
デ・ティヴォリがパリ万国博覧会を訪問。バルビゾン派の作品を知り、仲間の画家たちにその情報を伝える。 |
1860
|
―
|
この頃からボヘミアンによる前衛文学運動「スカピリアトゥーラ(蓬髪派)(Scapigliatura)」が興隆(ミラノ)。美術や音楽の領域にもまたがる総合芸術運動となる。
|
1862 |
― |
フィレンツェの新聞『ガゼッタ・デル・ポポロ』が、カフェ・ミケランジェロに集う画家たちのグループ展出品作について、「マッキアイオーリ」の呼称を使う。 |
1863 |
― |
この頃から「レジーナ派(Scuola di Resina)」が興隆(ナポリ)。反アカデミズムを掲げる画家たちが、現実からの描写や光と色彩の関係性を探究。 |
1866 |
― |
アントニオ・フォンタネージ、フィレンツェを訪問。クリスティアーノ・バンティを通じてマッキアイオーリ派の影響を受ける。 |
1874 |
4 |
◎第1回印象派展(パリ)。ドガの誘いにより、ジュゼッペ・デ・ニッティスが出品。 |
1876 |
―
|
フォンタネージ来日。11月から工部美術学校で教鞭を執る(2年後に帰国)。同校ではヴィンチェンツォ・ラグーザが彫刻を、ヴィンチェンツォ・カペレッティが装飾図案などを教える。 |
1878 |
― |
◆イタリア王国の第2代国王であるウンベルトI世が即位。 |
1879 |
4 |
◎第4回印象派展。フェデリコ・ザンドメネギが初出品。 |
1880 |
― |
ファットーリ、フィレンツェ美術学校の教授に就任。 |
1882 |
4.17 |
フォンタネージ死去(トリノ)。 |
1886 |
― |
ジョヴァンニ・セガンティーニ、《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》で分割主義の描法を初めて試みる。
|
|
5 |
◎第8回印象派展。スーラが《グランド・ジャット島の日曜日の午後》出品。 |
1887 |
― |
ヴェネツィア・ビエンナーレの前身である「イタリア美術展」開催(ジャルディーニ・ディ・カステッロ)。 |
1888 |
― |
美術史家バーナード・ベレンソン、フィレンツェに移住。 |
1891 |
5 |
第1回ブレラ・トリエンナーレ(ミラノ)。セガンティーニ《2人の母》、ガエターノ・プレヴィアーティ《母性》などが展示され、分割主義が公に認知される。 |
1892 |
― |
美術学校から独立したブレラ絵画館の一般公開がはじまる(ミラノ)。 |
1894 |
― |
ヴィットリオ・ピーカによる著書『極東の美術』が刊行される。日本美術を紹介。 |
1895 |
1 |
『エンポリウム(Emporium)』創刊(ベルガモ)。文芸批評家・美術批評家のヴィットリオ・ピーカが編集。「学術・文化・科学・バラエティの図版入り月刊誌」と銘打たれる。初期は象徴主義に傾倒し、ラファエル前派などを紹介。 |
|
4 |
「第1回ヴェネツィア国際美術展(la I Esposizione internazionale d'Arte della citt`a di Venezia)」(ジャルディーニ・ディ・カステッロ)。ウンベルトI世とマルゲリータ王妃臨席のもと開会式が行なわれる。15カ国285作家が参加。後援委員にギュスターヴ・モロー、ピュヴィス・シャバンヌ、バーン・ジョーンズなど。フランチェスコ・パオロ・ミケッティが最高位の賞を獲得。(※以降、「ヴェネツィア・ビエンナーレ」と表記) |
1896 |
― |
ジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード、《第四階級》の制作に着手。 |
1897 |
4 |
第2回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ヴィットリオ・ピーカの後援で印象派と後期印象派を紹介。モネ、ルノアール、ロダンらが展示。 |
1899 |
4 |
第3回ヴェネツィア・ビエンナーレ。「コローとバルビゾン派」など企画展を開催。 |
|
9.28 |
セガンティーニ、スイスのエンガディン地方で死去。享年41歳。 |
|
― |
この年、ウンベルト・ボッチョーニとジーノ・セヴェリーニがローマに移住。 |
1900年代
1900 |
― |
カルロ・カッラがパリ万国博覧会のパビリオンで展示。 |
|
|
アルデンゴ・ソッフィチ、パリに滞在(1907年まで)。万国博覧会で見た印象派の作品に衝撃を受ける。1903年にイタリアに一時帰国。 |
|
― |
パリに滞在していたジャコモ・バッラがローマに戻る。 |
1902 |
5 |
カ・ペーザロ(Ca' Pesaro)に近代美術館開館(ヴェネツィア)。 |
1903 |
1 |
雑誌『レオナルド(Laonardo)』創刊(フィレンツェ)。批評家ジョヴァンニ・パピーニとジュゼッペ・プレッツォリーニ編集。 |
|
4 |
第5回ヴェネツィア・ビエンナーレ。イタリアで初めてシスレーを紹介。 |
|
― |
ソッフィチ、パリでパブロ・ピカソ、ギョーム・アポリネール、マックス・ヤコブに会う。 |
1904 |
4 |
ボッチョーニがパリに滞在。その後、ロシアを訪問。 |
1905 |
2 |
雑誌『ポエージア(Poesia)』創刊(ミラノ)。フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ、セミ・ベネッリ、ヴィタリアーノ・ポンティが編集。国内外の文学者を紹介するほか、自由詩を掲載。 |
|
4 |
第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ガブリエーレ・ダヌンツィオがイタリア象徴主義のセクションに展示されたレオナルド・ビストルフィの彫刻を称賛。 |
|
― |
ジョルジョ・デ・キリコ、ミュンヘンの王立美術学校で学ぶ(~1907年)。ベックリン、クリンガーの絵画や、ニーチェ、ショーペンハウアーの哲学に傾倒。 |
|
|
アメデオ・モジリアーニとセヴェリーニ、パリに移住。10月に知り合う。 |
1907 |
4 |
第7回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ベルギーが自国パヴィリオンを建設。 |
|
6.14 |
ペリッツァ・ダ・ボルペード死去(ボルペード)。 |
1908 |
12.20 |
『ラ・ヴォーチェ(La Voce)』創刊(フィレンツェ)。ベネデット・クローチェ後援のもと、ジュゼッペ・プレッツォリーニが編集長を務める。教育、社会問題から文化関係まで幅広く扱う。パピーニ、ソッフィチ、ジェンティーレ、エイナウディなど知識人が寄稿。翌09年からソッフィチの連載が開始。印象派やセザンヌ、ロッソについて論じる。 |
|
― |
ヴィットリオ・ピーカ『フランスの印象派』刊行。印象派がイタリアで注目されるきっかけとなる。 |
|
|
ボッチョーニ、ミラノに移住。広告やイラストの仕事を手掛ける。 |
|
|
◎ヴィルヘルム・ヴォリンガー『抽象と感情移入』刊行。 |
1909 |
2.20 |
マリネッティ起草による「未来派の創立と宣言」がパリの日刊紙『フィガロ』の1面に掲載される。その後、『ポエージア』にイタリア語版掲載。+[引用を読む]
- 「世界の偉大さは、ある新しい美によって豊かになったとわれわれは断言しよう。それは速度の美である。爆風のような息を吐く蛇に似た太いパイプで飾られたボンネットのあるレーシングカー…散弾のうえを走っているように、うなりをあげる自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい」(…)「われわれは幾世紀もの過去の崖っぷちに立っている!…もしわれわれが不可能の神秘の扉を突き破ろうとするなら、なぜ後ろをふりかえるのか?時間と空間はきのう死んだ。われわれはすでに、いたるところに存在する永遠の速度を創造したのだから、絶対のなかにもう、生きているのだ。」[*1]
|
|
4 |
第8回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ペリッツァ・ダ・ボルペード、ティート、ファットーリ、シニョリーニなどが展示。 |
|
― |
この頃、デ・キリコが《秋の午後の謎》を手掛ける。 |
|
5 |
森鴎外抄訳「未来派宣言」が雑誌『スバル』に掲載される。 |
1910年代 |1911|1912|1913|1914|1915|1916|1917|1918|1919|
1910 |
1 |
「未来派の夕べ」(ロセッティ大劇場、トリエステ)。 |
|
|
プレヴィアーティの回顧展(ミラノ)。ボッチョーニが観賞。 |
|
2.11 |
「未来派画家宣言」が起草される。ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ルイジ・ルッソロ、ジーノ・セヴェリーニ、ジャコモ・バッラが署名。このとき、マリオ・シローニも運動に勧誘されるが、署名を断る。 |
|
3.8 |
「未来派の夕べ」(キアレッラ劇場、トリノ)。「未来派画家宣言」が朗読される。 |
|
4.11 |
「未来派絵画技術宣言」が起草される。ボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、セヴェリーニが署名。 |
|
4 |
第9回ヴェネツィア・ビエンナーレ。クリムト、ルノアールに一室が与えられる。クールベの回顧展。マリネッティによるボッチョーニ展が論争を引き起こす。 |
|
|
「第1回イタリアにおける印象派展」(フィレンツェ)。『ラ・ヴォーチェ』主催、ソッフィチ企画。ドガ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、モネなどを紹介。 |
|
7.8 |
ヴェネツィアのサン・マルコ広場でマリネッティ、ボッチョーニ、カッラ、ルッソロが街頭演説。「伝統主義者ヴェネツィアに反対する」(4月27日付)のビラを撒く。 |
|
7 |
ボッチョーニ、未来派の画家として初の個展(カ・ペーザロ画廊、ヴェネツィア)。42点を展示。 |
|
10.11 |
プラテッラが「未来派音楽家宣言」を起草。 |
|
|
この年、未来派宣言がドイツ、フランス、ロシア、アメリカで翻訳される。 |
1911 |
4 |
「自由芸術展」(リコルディ・パヴィリオン、ミラノ)。ボッチョーニ、カッラ、ルッソロなどの未来派絵画を展示。会期中、観客によってボッチョーニの《哄笑》が傷つけられる。 |
|
6 |
『ラ・ヴォーチェ』でソッフィチが未来派の展覧会を酷評する。同月、マリネッティ、カッラ、ボッチョーニがフィレンツェのカフェにいたソッフィチを襲撃する事件が起きる。 |
|
7 |
デ・キリコ、家族とともにトリノを訪問。その後、パリに転居。 |
|
10 |
ボッチョーニとカッラ、パリに滞在。アポリネール、ピカソと知り合う。 |
1912 |
2.5 |
「イタリア未来派の画家たち」(ベルネーム・ジュヌ画廊、パリ)。バッラ、ボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、セヴェリーニが展示。ロンドン、ベルリン、ブリュッセルを巡回。 |
|
4.11 |
ボッチョーニが「未来派彫刻技術宣言」を起草。+[引用を読む]
- 「絵画と同様彫刻においても、運動の様式を追求しなければ革新を行なうことはできない。」[*2]
|
|
― |
秋、デ・キリコがサロン・ドートンヌに初出品(パリ)。《信託の謎》《ある秋の午後の謎》を展示。 |
|
|
◎カンディンスキー『芸術における精神的なもの』刊行。 |
1913 |
1.1 |
『ラチェルバ(Lacerba)』創刊(フィレンツェ)。ジョヴァンニ・パピーニとソッフィチが編集。主な寄稿者は、ボッチョーニ、カッラ、ソッフィチ、ルッソロ、パラッツェスキ。当初は未来派の思想の普及に貢献。 |
|
1 |
「第1回国際分離派展(Prima Esposizione Internazionale d'Arte della Secessione)」(パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ、ローマ)。フェリーチェ・カレーナ、フェリーチェ・カゾラーティ、プリニオ・ノメッリーニらが展示。イタリア人作家以外では、マティス、ピサロ、ロダンなど。 |
|
2 |
「第1回未来派絵画展」(コンスタンツィ劇場、ローマ)。ボッチョーニ、バッラ、カッラ、ソッフィチ、ルッソロ、セヴェリーニが展示。 |
|
3.11 |
ルッソロが宣言「雑音の芸術」を起草。+[引用を読む]
- 「我々未来主義者は、みな、大音楽家のハーモニーをこよなく愛し、好んできた。ベートーヴェンやワグナーは、何年もの間、心や神経をゆり動かしてきた。だがもう飽き飽きだ。我々は、市電、エンジン、車体、大騒ぎする群衆の雑音の理想的組合せの方が、例えば『エロイカ』や『田園』を聴き直すよりもずっと好きだ。」[*3]
|
|
3 |
デ・キリコがサロン・デ・アンダパンダンに出品(パリ)。ピカソとアポリネールに称賛される。 |
|
4 |
セヴェリーニ個展(マールボロ画廊、ロンドン)。 |
|
|
ロベルト・ロンギ、「未来派の画家たち」を『ラ・ヴォーチェ』に寄稿。+[引用を読む]
- 「未来派の画家たちは運動を表現するという抒情詩的・絵画的(リリコ・ピットリコ)な必要性を表明することで、まさに絵画芸術の王道を強固とした足取りで歩んでいるのである。」[*4]
|
|
5 |
ルッソロとウーゴ・ピアッティが騒音楽器「イントナルモーリ」を発明。 |
|
6.20 |
ボッチョーニの彫刻展(ラ・ボエシー画廊、パリ)。《壜の空間への展開》《空間における連続性の唯一の形態》などを展示。ロンドン、ベルリン、ブリュッセル、アムステルダムを巡回。 |
|
6.29 |
アポリネール、「反伝統-未来派(L’Antitradition Futuriste)」を『ラチェルバ』に寄稿。 |
|
6 |
アントン・ジューリオ・ブラガリア『未来派のフォトダイナミズモ』刊行。 |
|
|
◎アポリネール『キュビズムの画家たち』刊行。ドローネーの絵画に対し、「オルフィスム」と命名。 |
|
11.30 |
『ラチェルバ』主催による未来派作品展(ゴネッリ画廊、フィレンツェ) 。バッラ、ボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、セヴェリーニ、ソッフィチが展示。 |
|
12.6 |
スプロヴィエーリ画廊開廊(ローマ)。未来派の作品を常設展示。最初の展覧会はボッチョーニ彫刻展。 |
|
12.12 |
「未来派の夕べ」(ヴェルディ劇場、フィレンツェ)。マリネッティ、ソッフィチ、パピーニ、ボッチョーニ、パラッツェスキが参加。 |
|
― |
この年、オットーネ・ロザイ、シローニが未来派に加わる。 |
|
|
セヴェリーニが宣言「クロモフォニア : 音の色(cromofonia : Il colore dei suoni)」発表。カンディンスキーの理論を基に執筆。 |
1914 |
3.21-22 |
リッカルド・バッケッリ、オズヴァルド・リチーニ、ジョルジョ・モランディらが一晩限りの展覧会を開催(ホテル・バリオーニ、ボローニャ)。 |
|
3 |
「第2回国際分離派展」(パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ)。ロッシ、アルトゥーロ・マルティーニ、ジョルジョ・モランディらが展示。イタリア人以外ではマティス、セザンヌの作品を展示。 |
|
4.3 |
「第1回国際自由未来派展」(スプロヴィエーリ画廊)。カンディンスキー、アーキペンコ、マリネッティ、カンジェッロ、バッラ、マルティーニ、プランポリーニ、ロッシ、シローニ、デペロ、モランディなどが展示。 |
|
4 |
第11回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ジュゼッペ・デ・ニッティスの大回顧展。ザンドメニギ、ティート、サルトーリオの個展。イタリアの分割主義の紹介に一室が与えられる。 |
|
|
◎ヴォーティシズムの機関紙『ブラスト(Blast)』創刊(ロンドン)。 |
|
8 |
アントニオ・サンテリアによる「未来派建築宣言」が『ラチェルバ』に掲載される。 |
|
11.15 |
ベニート・ムッソリーニが日刊紙『イル・ポポロ・ディタリア(Il Popolo d'Italia)』創刊(ミラノ)。 |
|
― |
ロベルト・ロンギが「ピエロ・ディ・フランチェスキとヴェネツィア絵画の展開」を雑誌『ラルテ(L'arte)』に寄稿。 |
|
|
年末から、セヴェリーニが「戦争絵画」のシリーズを制作(~1916年1月)。 |
|
|
アルベルト・サヴィーニオが滞在先のパリで執筆した演劇「半死の歌」が上演され、デ・キリコにマネキン人形のインスピレーションを与える。 |
|
|
この年、フォルトゥナート・デペロが宣言「造形的複合体-未来派自由遊戯-人工的生」発表。「造形的複合体(コンプレッソ・プラスティコ)」の作品を構想する。+[ノートを読む]
|
1915 |
2 |
『ラチェルバ』が未来派からの離脱を表明。ソッフィチは未来派から具象画へ転向。 |
|
3.11 |
バッラとデペロが「未来派による宇宙の再構築宣言(Ricostruzione futurista dell'universo)」を起草。 |
|
3 |
◇イタリアが三国同盟を破棄、5月にオーストリアに宣戦布告。 |
|
5 |
エンリコ・プランポリーニ、最初の宣言「モーター雑音の絶対的構造」発表。 |
|
12 |
◎「最後の未来派絵画展 0-10」(サンクトペテルブルク)。 |
|
― |
「第3回国際分離派展」(ローマ)。カゾラーティ、ロレンツォ・ヴィアーニらが展示。 |
|
|
デ・キリコ、兵役でフェッラーラに派遣されるが、神経抑鬱症のためフェラーラの陸軍病院に一時入院。 |
|
|
この年、ボッチョーニ、フーニ、マリネッティ、ルッソロ、サンテリアらが戦地に赴く。パルマに召集されたモランディは間もなく体調を崩して帰郷。 |
1916 |
4.20 |
デペロ個展(ウンベルト通り20番地、ローマ)。絵画、素描、造形複合体(コンプレッソ・プラスティコ)、舞台衣装、タペストリーなど約200点を展示。 |
|
8.17 |
ボッチョーニ、ヴェローナの戦場での落馬が原因となり死去。享年33歳。 |
|
10.10 |
サンテリアがオーストリアとの戦争により戦死。享年28歳。 |
|
12 |
ボッチョーニ回顧展(パラッツォ・コーヴァ、ミラノ)。 |
|
― |
この年、カッラが未来派を離脱。一方、『ラ・ヴォーチェ』に「ジョットについての談話」(3月31日付)、「構成者パオロ・ウッチェルロ」(9月30日付)を寄稿。古典回帰の傾向を示す《酔いどれ紳士》を制作。 |
|
|
セヴェリーニ、ローマでトリスタン・ツァラと出会う。チューリヒでダダイストの展覧会にも参加。 |
|
|
第一次世界大戦のため1916年と1918年のヴェネツィア・ビエンナーレは中止となる。 |
1917 |
1-春頃 |
フェラーラで治療を受けていたデ・キリコが、同じ病院に収容されていたカッラと出会う。サヴィーニオ、デ・ピシスも加わり、芸術について議論。「形而上絵画」のグループが誕生。 |
|
6 |
雑誌『ノイ(Noi)』創刊。プランポリーニとビーノ・サンミナテッリが編集。ヨーロッパの前衛美術を広く扱い、デ・キリコ、ツァラ、未来派の画家たちが寄稿。イタリアにおけるダダイズム普及にも貢献する。 |
|
― |
◎ピエト・モンドリアン、テオ・ファン・ドゥースブルフらが『デ・ステイル』創刊(オランダ)。 |
|
|
◎マルセル・デュシャンの《泉》がアンデパンダン展で出品拒否される(NY)。 |
1918 |
3.15 |
文芸雑誌『ラ・ラッコルタ(La Raccolta)』創刊(ボローニャ)。ジュゼッペ・ライモンディ編集。バッケッリ、カルダレッリなどの詩人・作家のほか、アポリネール、ヤコブ、ツァラなどヨーロッパの前衛文学を広く扱う。ライモンディはモランディの仕事に関心を持つ。 |
|
4.15 |
デペロとジルベール・クラヴェルの共同制作による人形劇「造形的バレエ」上演(ピッコリ劇場、ローマ)。 |
|
10 |
バッラ個展(カーサ・ダルテ・ブラガリア、ローマ)。 |
|
11.9 |
◎アポリネール、戦場で負った傷がもとで死去(パリ)。享年38歳。 |
|
11.15 |
雑誌『ヴァローリ・プラスティチ(Valori Plastici)』創刊(ローマ)。マリオ・ブローリオ編集。カッラとソッフィチが協力。その他の寄稿者に、デ・キリコ、サヴィーニオなど。伝統な様式や過去の巨匠に倣い、「秩序への回帰」を旗印に掲げる。国際的に流通し、日本の丸善でも販売される。 |
|
― |
この頃から未来派はムッソリーニの思想に接近しはじめる。 |
|
|
モランディ、形而上絵画風の作品を制作(~1919年)。 |
|
|
◎オザンファン、ジャンヌレ『キュビスム以後』刊行。 |
1919 |
2 |
デ・キリコ個展(カーサ・ダルテ・ブラガリア)。イタリアで初。ロンギが「整形外科学の神へ」を『イル・テンポ』に寄稿、展覧会を酷評する。同月、デ・キリコは「われら形而上派」をローマの雑誌『今日の時評(Cronache
d'attualit`a)』に寄稿。+[引用を読む]
- 「今や私は『形而上派』と云う言葉の中に何らの曖昧さも見い出さない。すなわちそれは、私に『形而上的』に見える素材がもつのと同じ平静さと無感覚な美しさであり、明確な色と正確な大きさのために、あらゆる無秩序と曖昧さの極にあるそれらの諸事物は、私にはますます形而上的に見えるのである。」[*5]
|
|
3 |
◆ムッソリーニが「戦闘者ファッシ」を結成(ミラノ)。 |
|
4 |
月刊文学誌『ラ・ロンダ(La Ronda)』創刊(ローマ)。リッカルド・バッケッリ編集。スパディーニ、カッラなどが寄稿。 |
|
8 |
『デ・ステイル』10号でサンテリアの作品と宣言を紹介。 |
|
10 |
デペロの「未来派の家」設立(ロヴェレート)。 |
|
11 |
デ・キリコ、「メティエへの回帰」を『ヴァローリ・プラスティチ』で発表。ローマに移住し、形而上絵画の時代も収束に向かう。 |
|
― |
この年、カッラの《ロトの娘》図版が『ヴァローリ・プラスティチ』に掲載される。カッラは同誌や『イル・ポポロ・ディタリア』に寄稿するほか、著書『形而上絵画(La
Pittura Metafisica)』を刊行。 |
1920年代 |1921|1922|1923|1924|1925|1926|1927|1928|1929|
1920 |
1 |
モジリアーニ死去(パリ)。享年35歳。 |
|
3 |
文芸誌『地中海通信(Rete mediterranea)』創刊(フィレンツェ)。ソッフィチとパピーニが編集。「秩序への回帰」を謳う。ソッフィチはイタリア美術界におけるフランス主義に対抗して、地方的な伝統に接近する。 |
|
4.15 |
第12回ヴェネツィア・ビエンナーレ。事務局長にピーカが就任。ゴッホ、セザンヌなど後期印象派の画家たちに加え、スーラ、シニャックなど新印象派をビエンナーレにおいて初めて紹介。 |
|
― |
木下秀一郎、普門暁らが「未来派美術協会」結成。 |
1921 |
3 |
「ヴァローリ・プラスティチ展」(ベルリン国立近代美術館)。マリオ・ブローリオが組織。国外で初のグループ展。ドレスデン、ハノーヴァー、ミュンヘンを巡回。 |
|
3.31 |
「第1回ローマ・ビエンナーレ(la I Biennale romana)」(パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ)。ローマ首都移転50周年を記念して開始した国際展。コスタ、ファットーリ、プレヴィアーティの回顧展。 |
|
4.8 |
「春のフィレンツェ展(La fiorentina Primaverile)」(パラッツォ・サンガッロ、フィレンツェ)。フィレンツェ美術協会主催。デ・キリコ、カッラ、モランディなどヴァローリ・プラスティチ周辺の作家をはじめ、約300人が展示。デ・キリコがカタログ序文でモランディを称賛。 |
|
― |
この頃から、シローニはイラストレーターとして日刊紙『イル・ポポロ・ディタリア』に協力するようになる(ミラノ)。1927年からは美術批評家として同紙に寄稿。 |
|
|
カッラ、アンドレ・ドランのモノグラフを『ヴァローリ・プラスティチ』に寄稿。形而上絵画の時代の最後期の作品である《海辺の松》を制作。 |
|
|
セヴェリーニ、『キュビスムから古典主義へ:コンパスと数の美学』刊行(パリ)。 |
|
|
ミラノ市立近代美術館(Galleria d'Arte moderna di Milano)開館。通称GAM。
|
|
|
◆ルイジ・ピランデルロ『作者を探す六人の登場人物』初演。 |
1922 |
1 |
プランポリーニ企画による「セクション・ドール」の展覧会(ヴェネト通り、ローマ)。未来派とキュビスムの作家たちが展示。 |
|
3 |
大規模な未来派展(ベルリン)。日本人作家では村山知義、永野芳光が出品。 |
|
4.15 |
第13回ヴェネツィア・ビエンナーレ。中央館でモジリアーニ回顧展、アメリカの黒人彫刻の展示。 |
|
4 |
「17・18世紀イタリア絵画展」(フィレンツェ)。ウーゴ・オイエッティ、リオネッロ・ヴェントゥーリらが企画。1920年代における17世紀絵画の再評価を象徴する展覧会となる。 |
|
9 |
後の「ノヴェチェント・イタリアーノ(Novecent Italiano)」に繋がるグループが誕生(ミラノ)。メンバーは、アンセルモ・ブッチ、レオナルド・ドゥドレヴィッレ、アキッレ・フーニ、エミリオ・マレルバ、ピエロ・マルッシグ、ウバルド・オッピ、マリオ・シローニの7人。 |
|
10.31 |
◆ローマ進軍。ムッソリーニによるファシスト政権樹立。 |
1923 |
3.26 |
「ノヴェチェントの7人展」(ペーザロ画廊、ミラノ)。美術評論家マルゲリータ・サルファッティ企画。ムッソリーニがスピーチを行う。 |
|
5 |
第1回国際装飾芸術展(モンツァ)。後のミラノ・トリエンナーレ。 |
|
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「機械芸術宣言(il manifesto L'arte meccanica)」が『ノイ』で発表される。プランポリーニ、イーヴォ・パンナッジ、ヴィニーチョ・パラディーニが署名。 |
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9 |
第2回ローマ・ビエンナーレ。マンチーニ、サルトーリオ、イノチェンティらの回顧展。デ・キリコ、セヴェリーニ、フェラッツィ、ドンギなどが展示。フランス館でドガの彫刻70点を展示。 |
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― |
この年、バッラが《Bal Tic Tac》を制作(ローマ)。のちに破棄。 |
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反ファシスト運動の容疑でカゾラーティが逮捕される。 |
1924 |
4 |
第14回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ヴェントゥーリの推薦により、カゾラーティに一室が与えられる。マルゲリータ・サルファッティが企画展「ノヴェチェントの6人の画家」を開催。 |
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7 |
雑誌『イル・セルヴァッジョ(Il Selvaggio)』創刊。ミーノ・マッカリ、アンジェロ・ベンチーニ編集。1926年からフィレンツェに拠点を移す。ここから「郷土派(ストラパエーゼ)」が台頭し、田園都市の伝統を尊重する文芸潮流がおこる。 |
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10 |
デ・ピシス初個展(国立劇場緑の部屋、ローマ)。 |
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◎アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」発表(パリ)。 |
1925 |
1 |
◆ムッソリーニがファシズム独裁宣言発表。 |
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3.1 |
第3回ローマ・ビエンナーレ。デ・キリコ、マルティーニ、未来派の作家たちが展示。そのほかシローニの紹介によるカッの展示。コローの回顧展。 |
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3 |
◎フランツ・ロー『表現主義以後 : 魔術的リアリズム』刊行。新即物主義を理論化。 |
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4 |
「現代産業・装飾美術国際展覧会」(パリ)。「アール・デコ博」として知られる。イタリア代表としてバッラ、デペロ、プランポリーニが出品。バッラはタペストリーを展示して金賞受賞。 |
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5.1 |
◆雑誌『イル・モンド』で反ファシストの知識人(クローチェ、モンターレなど)による声明文が発表される。 |
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11 |
「ジョヴァンニ・ファットーリ生誕100周年へのオマージュ展」(パラッツォ・ピッティ、フィレンツェ)。ファットーリの評価と歴史的位置付けをめぐり議論が沸騰。 |
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◎第1回シュルレアリスム展(ピエール画廊、パリ)。デ・キリコの絵画がシュルレアリスムの先駆として展示される。 |
1926 |
2.15 |
「第1回ノヴェチェント・イタリアーノ展」(パラッツォ・デッラ・ペルマネンテ、ミラノ)。約120人の画家と彫刻家によるノヴェチェント派最大の展覧会が官費で開催される。ロッソ、デ・キリコ、カッラ、モランディ、カンピッリ、シローニ、マルティーニ、リチーニ、ニューディ、セヴェリーニ、モレッリ、デ・ピシス、カゾラーティ、未来派の作品を展示。ムッソリーニが開会式でスピーチ。+[引用を読む]
- 「政治が芸術であることは疑いない。それはもちろん科学ではない。ましてや経験でもない。だから芸術なのである。」[*6]
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3 |
デ・ピシス、パリに移住(~1939年)。デ・キリコの紹介により、パリで初の展覧会を行う。 |
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5 |
第15回ヴェネツィア・ビエンナーレ。フェリーチェ・カレーナとソッフィチの個展。マリネッティの企画によりビエンナーレで初めて未来派の一室が設けられる。未来派の部屋ではバッラ、ボッチョーニ、デペロ、ドットーリ、プランポリーニ、ルッソロ、タートの作品を展示。この回からビエンナーレを国が統制するようになる。 |
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10 |
ムッソリーニがペルージャの美術アカデミーで演説。ファシズム芸術の必要性を公言。+[引用を読む]
- 「創造せねばならない。われわれの時代の新たな芸術、ファシズム芸術を」[*7]
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11 |
文芸雑誌『ノヴェチェント(900)』創刊(~1929年)。文芸批評家のボンテンペッリ編集。ここから「都会派(ストラチッタ)」が興隆し、マッカリ、ロンガネージらの郷土派(ストラパエーゼ)と対立する傾向を示す。 |
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― |
この年、イタリア合理主義建築の組織「グルッポ7(Gruppo 7)」結成。ル・コルビュジェとバウハウスの理論から影響を受け、ジュゼッペ・テラーニなど若き建築家が集う。 |
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◎ジャン・コクトー「秩序への呼びかけ(Le rappel a l'ordre)」発表。 |
1927 |
2 |
「イル・セルヴァッジョ」のグループ展(イル・セルヴァッジョの部屋、フィレンツェ)。 |
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11 |
マリオ・マファイとアントニエッタ・ラファエルがローマのカヴール通りに転居。シピオーネ、ウンガレッティ、ベッカリアなど、芸術家や文学者たちが集う場となる。ここから「ローマ派(Scuola Romana)」と呼ばれる画家たちが活躍。 |
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― |
ノヴェチェント・イタリアーノの展覧会がハンブルグとアムステルダムを巡回。 |
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ヴァローリ・プラスティチ出版より単行本『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』刊行。ロベルト・ロンギのテキストを掲載。ピエロの再評価に貢献する。 |
1928 |
1.15 |
雑誌『ドムス(Domus)』創刊。建築家ジオ・ポンティが編集。建築やデザインなどを扱う。 |
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2 |
パリに住むイタリア人画家の展覧会(サロン・デ・レスカリエ、パリ)。カンピッリ、セヴェリーニ、デ・ピシス、メンツィオらが展示。 |
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5 |
第16回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ヴィットリオ・エマヌエーレ3世とムッソリーニが調印した法律により、ビエンナーレの組織が自治機関(独立法人)となる。ファシスト体制下で運営委員会が組織される。 |
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― |
カンピッリ、ローマを訪問。エトルリア美術に強い感銘を受ける。 |
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ルチオ・フォンタナ、アルゼンチンからミラノに移住。 |
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この年からイタリア合理主義建築運動「MIAR(ミアール)」による展覧会が続けて開催される。 |
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建築・デザインの雑誌『ラ・カーザ・ベッラ(La casa bella)』創刊。グイド・モランゴーニ編集。後に『カーザベッラ(Casabella)』に誌名変更。 |
1929 |
1.12 |
「トリノの6人の画家(Sei pittori di Torino)」による最初の展覧会(グリエルミ画廊)。メンバーは、ジェシー・ボズウェル、ジジ・ケッサ、ニコラ・ガランテ、カルロ・レーヴィ、フランチェスコ・メンツィオ、エンリコ・パウルッチ。美術史家リオネッロ・ヴェントゥーリと批評家エドアルド・ペルシコが主導となり、この年からジェノバ、トリノ、ミラノなど各地で展覧会を開催。ノヴェチェントが推奨する古典主義に抗し、印象主義の様式を導入。 |
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1.21 |
「ローマ派」のグループ展(パラッツォ・ドーリア、ローマ)。シピオーネ、マファイ、ラファエル、ディ・コッコ、チェラッキーニ、ジュゼッペ・カポグロッシらが展示。カポグロッシは後に抽象絵画に転向。 |
|
2 |
◆ラテラーノ条約締結。国家と教会の和解が成立。 |
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3.2 |
「第2回ノヴェチェント・イタリアーノ展」(パラッツォ・デッラ・ペルマネンテ、ミラノ)。サルファッティ企画。ポンペオ・ボッラ、カッラ、トージ、シローニ、マリオ・ヴェラーニ・マルキ、カンピッリ、マルッシグ、ロザイ、フーニが展示。 |
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5 |
カンピッリ初個展(ジャンヌ・ビュシェ画廊、パリ)。 |
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9.22 |
マリネッティが『ガゼッタ・デル・ポポロ』誌上で「航空絵画」の原理を発表。のちに「未来派航空絵画宣言」として完成され、バッラ、ベネデッタ、デペロ、ドットーリ、フィッリア、プランポリーニ、ロッソ、ソメンツィ、タートが署名。 |
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― |
ロンギがマファイの家に集う一派を「カヴール通り派(Scuola di via cavour)」と命名。1931年頃まで活動。 |
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◎「新即物主義展」(アムステルダム市立美術館)。ノイエ・ザッハリッヒカイトという言葉がオランダで知られるきっかけとなる。 |
1930年代 |1931|1932|1933|1934|1935|1936|1937|1938|1939|
1930
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1 |
「トリノの6人の画家」のグループ展(ピアッツァ・カステッロ、トリノ)。 |
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4 |
「羅馬開催日本美術展」(パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ、ローマ)。イタリアで初めて日本美術を大々的に紹介。横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳など80人が168点展示。 |
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第17回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ビエンナーレの運営がヴェネツィア市からファシスト政権へ移り、ナショナリズムに傾倒した展示が増加。中央館で未来派の展示。モジリアーニに一室が与えられる。批評家ヴァドマール・ジョルジュ企画「イタリアの呼び声展」で、パリに住むイタリア人(カンピッリ、デ・ピシス、シピオーネ、サヴィーニオほか)の作品を展示。 |
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9 |
イル・ミリオーネ画廊(Galleria il Milione)開廊(ミラノ)。バルディ画廊から改名し、ペルシコが運営に携わる。オープニングはロザイの個展。30年代において抽象美術が台頭する拠点のひとつとなる。 |
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シピオーネとマファイの2人展(ローマ画廊)。ピエール・マリア・バルディ企画。ウンガレッティ、ロンギ、オッポらがこの展示を称賛し、「ローマ派」の画家たちの評価に繋がる。 |
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ノヴェチェント・イタリアーノの展覧会(ブエノスアイレス)。46人が展示。 |
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10 |
「建築家サンテリアと未来派画家23人展」(ペーザロ画廊、ミラノ)。フィッリア、プランポリーニ、オリアーニ、ロッソ、ポッツォ、ムナーリ、サンテリアが展示。 |
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11 |
「ロンバルディアの芸術家たちの作品と習作展」(イル・ミリオーネ画廊)。ペルシコ企画。出品作家のアンジェロ・デル・ボン、クリストフォロ・デ・アミーチス、フランチェスコ・デ・ロッキ、ウンベルト・リッローニ、アドリアーノ・スピリンベルゴは後に「キアリズモ」と呼ばれる潮流を形成する。+[ノートを読む]
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12 |
フォンタナ初個展(イル・ミリオーネ画廊)。《黒い人物》などを展示。 |
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「未来派料理宣言(il Manifesto della cucina futurista)」が『ガゼッタ・デル・ポポロ』に掲載される(トリノ)。マリネッティらが署名。「イタリアの食事の絶対的宗教であるパスタの廃棄」などを提案。 |
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― |
この年からカッラが『アンブロジアーノ(L’Ambrosiano)』に美術批評家として寄稿(ミラノ)。 |
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|
モランディ、ボローニャ美術アカデミーの版画科教授に就任。 |
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この頃から、文学の分野などで「ネオレアリズモ(Neorealismo)」の用語が使われるようになる。 |
1931 |
1 |
第1回ローマ・クァドリエンナーレ(パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ)。C.E.オッポが事務局長を務める。アルトゥーロ・トージが大賞受賞。ロッソとスパディーニの回顧展。 |
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2 |
「第1回未来派航空絵画展」(芸術家クラブ、ローマ)。バッラ、プランポリーニ、ドットーリ、タートらが展示。 |
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|
◎「アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)」結成(パリ)。プランポリーニが運動に参加。 |
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― |
「第2回イタリア合理主義建築展」。ピエール・マリア・バルディとジュゼッペ・ボッタイが協力。「国家の建築」を標榜する。 |
|
|
◆この年、大学教員のファシスト党入党が義務づけられる。 |
1932 |
5 |
第18回ヴェネツィア・ビエンナーレ。「パリのイタリア人」「未来主義航空絵画展」、モネの回顧展など。 |
|
10 |
「ファシスト革命展(Mostra della Rivoluzione fascista)」(パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ、ローマ)。ローマ進軍10周年を記念して政府が開催。ファシズムの歴史を文書、写真、芸術作品を通して展観。画家、デザイナー、建築家が多数参加。マリオ・シローニやテラーニが会場設営に携わる。 |
|
― |
この年、ファシスト政権樹立10周年を記念して、ファシスト国家建設のためのプロジェクトがイタリア全土で進行。ファシズムの称賛につながる。 |
1933 |
5 |
第5回ミラノ・トリエンナーレ(パラッツォ・デッラルテ)。モンツァでの国際展がこの年からミラノで開催され、壁画部門、グラフィックアート部門、現代建築部門が加わった総合芸術展となる。マリネッティとプランポリーニの企画でサンテリア回顧展。シローニのフレスコ画《労働と日々》が展示される。また、合理主義住宅がセンピオーネ公園に建設される。ムナーリとプランポリーニは空港施設のインテリア・デザイン計画を発表。 |
|
|
雑誌『クァドランテ(Quadrante)』創刊(ミラノ)。ピエール・マリア・バルディとマッシモ・ボンテンペッリが編集。マリオ・ラディーチェ、ジュゼッペ・テラーニらが協力。建築、美術、文学などを紹介。 |
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11.7 |
アタナシオ・ソルダーティ個展(イル・ミリオーネ画廊)。幾何学抽象の作品を展示。 |
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11.9 |
ジーノ・ボニキ(通称シピオーネ)死去。享年29歳。 |
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12 |
シローニ、フーニ、カンピッリ、カッラによる「壁画宣言」が雑誌『コロンナ(Colonna)』で発表される(ミラノ)。『コロンナ』はサヴィーニオがこの年に創刊(~1934年)。 |
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― |
◇ヒトラー、ドイツ首相に就任。ナチス政権樹立。 |
1934 |
1 |
ジャコモ・マンズー、ローマを訪問。2人の枢機卿を従えて座る教皇を見たことが後の制作のインスピレーションとなる。 |
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4 |
イタリアで初のカンディンスキー個展。国内で抽象絵画が紹介される最初期の機会となる。 |
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5 |
第19回ヴェネツィア・ビエンナーレ。各国パビリオンでは、ファシズム支配のイタリアから離れて独自の展覧会を組織できるという規定がつくられる。 |
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11 |
「イタリアの抽象主義者」展(イル・ミリオーネ画廊)。オレステ・ボリアルディ、ジーノ・ギリンゲッリ、マウロ・レッジャーニが展示。 |
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12 |
ジョゼフ・アルバースとルイジ・ヴェネロージの2人展(イル・ミリオーネ画廊)。 |
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― |
ロベルト・ロンギがボローニャ大学教授に就任。特別講義でモランディを「イタリア最高の現存画家」と評する。 |
1935 |
2 |
第2回ローマ・クァドリエンナーレ。シピオーネの回顧展。マファイとピランデッロに一室が与えられる。マファイは《長椅子の横たわる裸婦》を発表。そのほか、セヴェリーニ、デ・キリコ、マルティーニ、メッシナなどが展示。マリノ・マリーニが彫刻大賞受賞。 |
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3 |
「最初のイタリア抽象美術」展。カゾラーティとパウルッチのアトリエで開催。 |
|
8 |
デ・キリコの回顧展(ピエール・マティス画廊、NY)。 |
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10 |
ファウスト・メロッティ個展(イル・ミリオーネ画廊)。 |
|
|
雑誌『美術批評(La critica d'arte)』創刊(フィレンツェ)。カルロ・ルドヴィコ・ラッギアンティ編集。 |
|
|
ファウスト・メロッティ「詩学宣言」発表。+[引用を読む]
- 「芸術とは天使的で幾何学的な魂の状態である。芸術が向かうのは知性であって、感覚ではない。この理由から、絵画に於ける「筆触」、彫刻に於ける「モデリング」は重要ではない。(人の指や何かを表現するタッチは芸術には不必要なものである。対位法を用いた音楽の演奏に一番ふさわしい楽器は、タッチを必要としないオルガンである)。モデリング(modellazione)は重要ではない。重要なのは転調(modulazione)である。これは単なる言葉遊びではない。モデリングはモデル、自然、無秩序からなる。それに対して、転調はモジュール、カノン、そして秩序から成る。クリスタルは自然に魔法をかける。」[*8]
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|
|
カルロ・ベッリによる著書『Kn』が刊行される。イタリア初の抽象美術の論考。 |
|
|
シローニのフレスコ画《芸術と科学のイタリア》がローマ大学に設置される。 |
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|
ムナーリ《役に立たない機械》が未来派の展覧会で展示される。 |
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|
カルロ・レーヴィ、反ファシスト活動の政治犯として南イタリアのルカーニアに流刑される。 |
1936 |
1.10 |
エドアルド・ペルシコ死去(ミラノ)。 |
|
2 |
◎「キュビスムと抽象美術展」(ニューヨーク近代美術館)。 |
|
5 |
第20回ヴェネツィア・ビエンナーレ。フランス館でドガの展示。マリネッティ企画による未来派の展示。 |
|
|
第6回ミラノ・トリエンナーレ。ペルシコ、マルチェッロ・ニッツォーリ、ジャンカルロ・パランティ、ルチオ・フォンタナが「勝利の間」を設計。《勝利の女神像》が展示される。 |
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12.26 |
ムッソリーニがローマで世界博覧会を開催する計画を発表。博覧会はのちに「E42」(戦後には「EUR」)と呼ばれ、都市計画へと発展。翌37年から建設開始。 |
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12 |
◎「幻想芸術・ダダ・シュルレアリスム」(ニューヨーク近代美術館)。 |
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― |
ジュゼッペ・テラーニ《カサ・デル・ファッショ》竣工(コモ)。イタリア合理主義の代表作となる。 |
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|
ジュゼッペ・ボッタイが国民教育相に就任(~1943年)。 |
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|
フォンタナがアルビゾーラでセラミックによる制作を開始。 |
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◎ヴァルター・ベンヤミンが論文「複製技術時代の芸術作品」発表。 |
1937 |
10.13 |
ピエロ・マルッシグ死去(パヴィア)。 |
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― |
◎パリ万国博覧会。スペイン館でピカソが《ゲルニカ》を展示。 |
1938 |
1 |
デ・キリコがイタリアに帰国。ミラノに住む。 |
|
5 |
第21回ヴェネツィア・ビエンナーレ。この年から大賞が授与されることになり、「具象美術」を超えて活動範囲を拡げることが公式に認定される。国内大賞=カゾラーティ(絵画)、クロチェッティ(彫刻)。 |
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10 |
雑誌『コッレンテ(corrente)』創刊(ミラノ)。エルネスト・トレッカーニ編集。ファシズムに抗する芸術家たちに影響を与え、後の「コッレンテ」派の形成に繋がる。ファシスト政権の圧力がかかり、雑誌は1940年6月に発禁にされる。 |
|
― |
美術雑誌『レ・アルティ(Le Arti)』創刊。ボッタイ主幹。 |
1939 |
2.5 |
第3回ローマ・クァドリエンナーレ。ピランデッロ、マンズー、カポグロッシ、モランディなどが展示。航空絵画と航空彫刻の未来派展を開催。 |
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3 |
「コッレンテ」の初のグループ展(パラッツォ・デッラ・ペルマネンテ)。カッラ、レナート・ビロッリ、ラファエレ・デ・グラーダ、マンズーが展示。 |
|
― |
ファシスト党書記長ファナリッチがクレモナ賞を、国民教育相ボッタイがベルガモ賞を創設。クレモナ賞は政治色が強く、ベルガモ賞は新しい芸術に開かれた傾向があった。 |
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|
◎クレメント・グリーンバーグ、論文「アヴァンギャルドとキッチュ」発表。 |
1940年代 |1941|1942|1943|1944|1945|1946|1947|1948|1949|
1940 |
4 |
第7回ミラノ・トリエンナーレ。ムナーリの個展でグラフィック・デザインを展示。 |
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5.18 |
第22回ヴェネツィア・ビエンナーレ。中央館でカッラ、アフロの展示。法王やムッソリーニの肖像画が数多く展示される。 |
|
― |
「コッレンテ」のグループが「画家と彫刻家の宣言(Manifesto di pittori e scultori)」発表(ミラノ)。 |
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|
マンズー、ミラノのブレラ美術学校の教授に任命される。同年トリノの美術学校に派遣。 |
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|
カンディンスキーの『芸術における精神的なもの』がイタリア語に翻訳される。 |
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◆ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』刊行。 |
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|
レナート・グットゥーゾ《磔刑図(La Crocifissione)》。 |
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3 |
◇京都帝国大学(現・京都大学)に日本初のイタリア語学イタリア文学講座開設。 |
1942 |
5 |
第23回ヴェネツィア・ビエンナーレ。国内大賞=アルベルト・サリエッティ(絵画)、フランチェスコ・メッシーナ(彫刻)。第二次世界大戦のためビエンナーレは1948年まで中止となる。 |
|
9 |
第4回ベルガモ賞の展覧会(パラッツォ・デッラ・ラジョーネ)。グットゥーゾが《磔刑図》を展示し、第2等受賞。第1等はメンツィオが受賞。 |
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― |
チェーザレ・ブランディによるモランディのモノグラフ刊行。 |
1943 |
3 |
◆北イタリアの工場で大ストライキが起こる。 |
|
5 |
第4回ローマ・クァドリエンナーレ。ルイジ・バルトリーニ、デ・ピシス、グットゥーゾ、マンズー、マルチェッロ・マスケリーニ、プランポリーニらが受賞。 |
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モランディ、レジスタンス活動の容疑で逮捕されるが、すぐに釈放される。その後、戦禍を逃れて家族とともにボローニャ近郊のグリッツァーナに疎開。翌44年に帰郷。 |
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9 |
北アメリカで軍医として従軍していたアルベルト・ブッリが捕虜になる。その後、テキサスに収容され、この頃から麻袋に絵を描きはじめる。 |
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― |
政治的な理由によりグットゥーゾがローマを離れ、反ファシズムのレジスタンス活動に参加。 |
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|
メロッティ、ローマからミラノに戻る。戦中の作品を破棄。 |
|
|
壁画制作に専念していたシローニが再びイーゼル絵画を手掛けるようになる。 |
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|
エミリオ・ヴェドヴァがレジスタンス運動に参加(ローマ)。 |
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― |
ローマ解放後まもなくローマ国立近代美術館が活動を再開。1942年より引き続き、パルマ・ブカレッリが館長を務める(~1975年)。12月に「現代美術展(Esposizione d'arte contemporanea)」。デ・ピシス、マリーニ、シピオーネ、ピランデッロ、マファイ、ミルコ、ペリクレ・ファッツィーニらが展示。 |
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メロッティの詩集『悲しきミノタウロス』刊行(ミラノ)。 |
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グットゥーゾ《GOTT MITUNS》。ナチスによる大虐殺を描く。 |
1945 |
4 |
モランディ個展(イル・フィオーレ画廊、フィレンツェ)。ロンギがカタログ序文に寄稿。+[引用を読む]
- 「フォルムを介して、フォルムの奥を掘り下げることによってのみ、また色調の『追憶』を積み重ねることによってのみ、純粋で無欠の感情の光へと行き着くことができる。実際、ここにこそ、モランディの内奥の教訓があり、最小限に遍歴する彼の主題の限定の意味がある。」[*9]
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|
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◆ムッソリーニが処刑される(ギウリーノ・ディ・メッツェグラ)。 |
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9 |
「イタリア新芸術分離派(Nuova Secessione Artistica Italiana)」結成(ヴェネツィア)。1947年、「芸術新戦線(Fronte Nuovo delle Arti)」に発展解消。 |
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10 |
◎フォートリエ、《人質》シリーズを発表(ルネ・ドゥルーアン画廊、パリ)。 |
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12 |
雑誌『ヌーメロ(Numero)』刊行(ミラノ)。コッレンテのメンバーが関わる。 |
|
― |
ローマアートクラブ(l'Art club di Roma)設立。政治的自由を謳う芸術家たちが集い、展覧会や講演会を組織。ジョゼフ・ヤレーマ協会会長、プランポリーニ副会長。デ・キリコ、セヴェリーニ、デ・ピシス、リオネッロ、ヴェントゥーリが名誉委員、カポグロッシとファッツィーニが顧問を務める。 |
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ムナーリ、モーター付きの最初のキネティック・アートを制作。また、子どものための仕掛け絵本10冊シリーズより7冊を刊行。 |
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ヴェントゥーリ、亡命先のアメリカから帰国。ローマ大学で教鞭を執る。 |
1946 |
2 |
「レアリズモ宣言 : ゲルニカを越えて(Manifesto del Realismo Oltre Guernica)」が『ヌーメロ』に掲載される(ミラノ)。ヴェドヴァ、モルロッティらが署名。コッレンテ派の芸術家たちが数多く参加し、戦後美術の指標となる。 |
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3 |
「社会芸術(Arte Sociale)」のメンバーによる初のグループ展(ヴェネト通り、ローマ)。ドラッツィオ、ペッリーニ、ヴェスピニャーニが参加。後の「フォルマ1(Forma1)」の結成に繋がる。 |
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9 |
「今日のフランス絵画(Pittura Francese d'Oggi)」(ローマ国立近代美術館)。ブラック、ドローネー、デュフィ、マティス、ピカソなどを紹介。 |
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10 |
「イタリア新芸術分離派」が宣言を発表。美学と政治の分離を求め、ビロッリ、グットゥーゾ、トゥルカート、ヴェドヴァ、モルロッティらが署名。 |
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― |
この年、「白の宣言(Manifesto blanco)」発表(ブエノスアイレス)。「空間主義(Spazialismo)」の前哨となる。フォンタナの思想に基づいて起草されたと考えられていたが、フォンタナ本人の署名はなし。かわりにフォンタナの教え子である若い作家たちが名を連ねる。+[引用を読む]
- 「われわれは、総合というものを、精神と肉体の統一体に不可欠な、色、音、運動、時間、空間といった物理的な要素の総和として考えている。空間的要素としての色彩、時間的要素としての音、そして時間と空間の中で展開する運動、こうしたものが、新しい芸術の基本的な形態である。新しい芸術が含んでいるのは、存在の四次元である。時間と芸術だ。」[*10]
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ナヴィーリオ画廊(galleria del naviglio)開廊(ミラノ)。 |
1947 |
1 |
「抽象・具象美術国際展(Mostra Internazionale d'Arte Astratta e Concreta)」(パラッツォ・レアーレ、ミラノ)。マックス・ビル、マックス・フーバー、ジローラモ・ボンベッリ企画。カンディンスキー、クレー、マックス・ビルなどを紹介。イタリア人ではジッロ・ドルフレス、リチーニ、ムナーリ、ラディーチェ、マンリオ・ロー、エットーレ・ソットサスなどが展示。 |
|
3 |
雑誌『フォルマ・ウーノ(Forma1)』創刊(ローマ)。宣言文「フォルマ」を掲載。ネオ・キュビスムに対抗。カルラ・アッカルディ、ピエトロ・コンサグラ、ピエロ・ドラーツィオ、ミーノ・グェッリーニ、アキッレ・ペリッリ、アントニオ・サンフィリッポ、ジュリオ・トゥルカートが署名。リアリズムと政治的主題を拒否し、「マルクス主義者であり形式者」であることを表明。 |
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5 |
「空間主義宣言(Manifesto dello spazialismo)」が起草される(ミラノ)。ブエノスアイレスからミラノに戻ったフォンタナを中心に、ヨッポロ、カイセルリアン、ミラーニが署名。 |
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6 |
「芸術新戦線」による初のグループ展(スピガ画廊、ミラノ)。マルキオーリ企画。ファッツィーニ、ヴィアーニ、レオンチッロ、フランキーナ、コルポラ、ヴェドヴァ、ピッツィナート、モルロッティ、サントマーゾ、グットゥーゾが展示。 |
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7 |
ブッリ初個展(ラ・マルゲリータ画廊、ローマ)。具象的な静物画、風景画などを発表。 |
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この頃から抽象‐具象(リアリズム)論争が盛んになる。イタリア共産党の「社会的主張を描くのに非具象絵画は何を成しうるか?」という批判から議論に発展。 |
1948 |
3 |
「イタリアの抽象美術展(Arte Astratta in Italia)」(ローマ画廊)。ローマアートクラブ企画。アッカルディ、コンサグラ、ドラツィオ、ドルフレス、フォンタナ、リチーニ、マニェッリ、ソルダーティ、トゥルカート、ヴェドヴァなど、30年代から活躍する大家と若手の抽象主義の作家が展示。 |
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「第2次空間主義宣言」が起草される。フォンタナ、ヨッポロ、カイセルリアン、ミラーニ、ドーヴァ、トゥッリエが署名。 |
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「具象芸術国際展(Rassegna Nazionale delle Arti Figurative)」(ローマ国立近代美術館)。第5回ローマ・クァドリエンナーレ。前回から運営体制が変化したことにより、この年のみ展覧会名を変更。抽象主義の作家(レッジャーニ、ラディーチェ、ムナーリなど)に一室が与えられるほか、プランポリーニ、グットゥーゾ、コルポラ、アフロなど、ネオキュビスムの作家が展示。 |
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5 |
ブッリ個展(ラ・マルゲリータ画廊、ローマ)。抽象表現による作品を展示。 |
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6 |
第24回ヴェネツィア・ビエンナーレ。戦時の中断から再開。美術史家ルドルフォ・パルッキーニが事務局長を務める。印象派と後期印象派、クレーの回顧展やピカソの個展を開催。イタリア美術の歩みを通観する企画展「3人のイタリア画家 1910年から1920年」では、カッラ、デ・キリコ、モランディに一室が当てられる。マルキオーリ企画による芸術新戦線の展覧会では、トゥルカート、サントマーゾ、コルポラ、ピッツィナート、グットゥーゾ、ヴェドヴァ、ビロッリ、モルロッティが出品。アルガン企画によるペギー・グッゲンハイム・コレクション展では、キュビスム、形而上絵画、シュルレアリスムからアメリカの抽象表現主義までを展観。国際大賞=ブラック(絵画)、ムーア(彫刻)、国内大賞=モランディ(絵画)、マンズー(彫刻)、ミーノ・マッカリ(版画)。 |
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10 |
「現代美術初の全国展(Prima Mostra Nazionale d'Arte Contemporanea)」(文化同盟、ボローニャ)。ライモンディ、ニューディ、アルカンジェリなど、ボローニャで活躍する批評家が組織委員会に加わる。ボローニャの美術家を中心に、芸術新戦線、フォルマの作家らが参加。展覧会は議論を巻き起こす。カタログ序文。+[引用を読む]
- 「自らに充足した個人は、他人とコミュニケートすることもかなわずに、自分の感情のささいな変化に意義を見出すことに汲々としている。しかし偉大な芸術の独創のみが、自分の人生の全射程にわたってこうした状況を打ち破ることができたはずだ。」[*11]
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― |
この年、「具体美術運動(Movimento Arte Concreta)」結成(ミラノ)。通称MAC。アタナシオ・ソルダーティ、ジッロ・ドルフレス、ジャンニ・モネ、ブルーノ・ムナーリが参加。幾何学的抽象を志向。12月にの初の展覧会(サルト書店、ミラノ)。カタログ執筆はマルキオーリ。ドラツィオ、ドルフレス、フォンタナ、ガラウ、グエッリーニ、マッツェン、モネ、ムナーリ、ペリーリ、ソルダーティ、ソットサス、ヴェロネージが展示。 |
1949 |
2 |
フォンタナ個展(ナヴィーリオ画廊、ミラノ)。初の環境芸術《ブラックライトによる空間環境》発表。その後、「穴(buchi)」シリーズに着手。 |
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6 |
「20世紀イタリア美術展」(ニューヨーク近代美術館)。アルフレッド・バー・ジュニア、ジェームズ・ソビー企画。アメリカで初めて20世紀イタリア美術を体系的に展観。 |
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抽象主義の国際展(ラ・ストロッツィーナ画廊、フィレンツェ)。 |
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10 |
雑誌『AZ』創刊。マリオ・バッロッコ編集。抽象主義などを紹介。 |
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― |
「オリジネ」結成(ローマ)。メンバーは、アルベルト・ブッリ、マリオ・バッロッコ、エットーレ・コッラ、ジュゼッペ・カポグロッシ。カポグロッシはアトリエをギャラリーに改装、1952年からオリジネ財団として運営。 |
1950年代 |1951|1952|1953|1954|1955|1956|1957|1958|1959|
1950 |
1 |
カポグロッシ個展(デル・セーコロ画廊、ローマ)。初の抽象絵画「表面(Superficie)」シリーズを展示。 |
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美術雑誌『パラゴーネ(Paragone)』創刊。ロベルト・ロンギ主幹。 |
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4 |
「第3次空間主義宣言」が起草される。フォンタナ、ミラーニ、ジャーニ、ヨッポロ、クリッパ、カルダッツォが署名。 |
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6 |
第25回ヴェネツィア・ビエンナーレ。中央館でフォーヴィスム、キュビスム、未来派、青騎士など近代美術の歴史を展観。アメリカ館でデ・クーニング、ポロック、ゴーキーの展示。国際大賞=マティス(絵画)、ザッキン(彫刻)、国内大賞=カッラ(絵画)。 |
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7 |
ペギー・グッゲンハイムコレクションよりポロックの20作品を展示(ナポレオンの間、ヴェネツィア)。 |
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― |
この年、アフロは8ヶ月間アメリカに滞在。キャサリン・ヴィヴィアーノ画廊(NY)で継続的に展示するようになる。 |
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◎批評家タピエが「アンフォルメル」という呼称を初めて用いる。 |
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2 |
「オリジネ」のグループによる初の展覧会(オリジネ画廊、ローマ)。メンバーの署名が入った宣言をカタログに掲載。 |
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「イタリアの抽象芸術と具体芸術 イタリア 1951(Arte Astratta e Concreta in Italia - 1951)」(ローマ国立近代美術館)。ピエロ・ドラッツィオ、アキーレ・ペリッリのギャラリー兼事務所「アジュ・ドール(Age d'Or)」とアートクラブによる企画。フォルマやMACの作家ほか多数が参加。カタログ監修はジュリオ・カルロ・アルガン、コンサグラほか。 |
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3 |
ミンモ・ロテッラ初個展(キウラッツィ画廊、ローマ)。その後、ロテッラは奨学金を得て8月からアメリカに滞在。 |
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4 |
「具体美術運動(MAC)」の展覧会(ボンピアーニ画廊、ミラノ)。 |
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「カラヴァッジョとカラバッジェスキ(Caravaggio e i caravaggeschi)」(パラッツォ・レアーレ、ミラノ)。ロベルト・ロンギ企画。 |
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5 |
第9回ミラノ・トリエンナーレ(パラッツォ・デッラルテ)。フォンタナがルチアーノ・バルデッサリとコラボレーションし、300メーターのネオン管を用いてパラッツォのエントランスでインスタレーション《ネオン・アラベスク》を発表。 |
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11 |
エンリコ・バイとセルジョ・ダンジェロの2人展(サン・フェデーレ画廊、ミラノ)。カタログで「核絵画(pittura nuclears)」に言及。翌52年に「核運動」のグループを組織、宣言文を発表。 |
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「具体美術運動(MAC)」の機関誌『具体美術(Arte Concreta)』創刊。 |
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12 |
第6回ローマ・クァドリアンナーレ。この年から再びパラッツォ・デッレ・エスポジツィオーで開催。モジリアーニ、マルティーニ、ヴィアーニの回顧展。ピランデッロとファッツィーニがローマ市賞受賞。 |
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― |
◇黒澤明監督「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞受賞。 |
1952 |
2 |
「空間主義芸術(Arte Spaziale)展」(ナヴィーリオ画廊)。空間主義者による初のグループ展。フォンタナは「穴」シリーズを初発表。そのほかドーヴァ、デ・ルイージ、ペヴェレッリ、クリッパ、カロッツィ、ヨッポロが展示。 |
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3 |
バイとダンジェロによる「核絵画展(Peintures Nucleaires)」(Galerie Apollo、ブリュッセル)。展覧会にあわせて「核絵画宣言(il Manifesto della pittura nucleare)」発表。グループにはジョー・コロンボ、ジャンニ・ドーヴァ、ロベルト・クリッパらが集結。 |
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5 |
「テレビのための空間主義運動宣言(il Manifesto del movimento spaziale per la televisione)」が起草される。 |
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6 |
第26回ヴェネツィア・ビエンナーレ。国際大賞=デュフィ(絵画)、カルダー(彫刻)、国内大賞=マリーニ(彫刻)。イタリア館ではブルーノ・サエッティ、ブルーノ・カッシナーリ、マリーニ、グットゥーゾ、カッラ、モランディ、カゾラーティが展示。日本は初めてビエンナーレに参加。 |
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ヴェントゥーリによる小冊子『8人のイタリアの画家』が刊行される(ローマ)。ここに挙げられた8人の画家は、アフロ、ビロッリ、コルポーラ、モレーニ、モルロッティ、サントマーゾ、トゥルカート、ヴェドヴァ。 |
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7 |
オリジネ財団が機関誌『視覚芸術(Arte Visive)』創刊。 |
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10 |
ロバート・ラウシェンバーグとサイ・トゥオンブリがイタリアを訪問。 |
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― |
◎ローゼンバーグ、「アクション・ペインティング」の用語を初めて用いる。 |
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― |
神奈川県立近代美術館開館(鎌倉)。土方定一が館長に就任。 |
1953 |
1 |
ブッリ個展「絵画とコラージュ」(フラムキン画廊、シカゴ)。アメリカでの初個展。 |
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3 |
ラウシェンバーグ個展(オベリスコ画廊、ローマ)。ヨーロッパで初。 |
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8.27 |
ソルダーティ死去(パルマ)。MACの新会長にはムナーリが就任。 |
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12 |
「ヨーロッパの若き画家たち : 選抜展」(ソロモン・R・グッゲンハイム美術館ほか)。イタリア人作家では、ブッリ、カポグロッシが出品。 |
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― |
この年、ラウシェンバーグがブッリのアトリエを訪問。ブッリの作品から「コンバイン・ペインティング」のインスピレーションを得る。 |
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ロテッラ、アメリカからローマに帰国。この頃から「デコラージュ」の作品を手掛ける。 |
1954 |
2.25 |
ラ・タルタルーガ画廊(Galleria La Tartaruga)開廊(ローマ)。プリニオ・デ・マルティイスがオーナーを務め、ローマの美術シーンを牽引。50年代後半からアメリカ美術を積極的に紹介。 |
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6 |
第27回ヴェネツィア・ビエンナーレ。統一テーマ「シュルレアリスム」。国際大賞=エルンスト(絵画)。国内大賞=ファッツィーニ(彫刻)。イタリア館ではカッラ、モランディ、マンズー、プランポリーニ、カポグロッシらが展示。そのほかクレーの展覧会。 |
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― |
「コンパッソ・ドーロ賞」設立。優れたデザイナーやデザイン活動を奨励。第一回目はムナーリの《こざるのジジ》が受賞。 |
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5 |
『日伊文化研究』が戦時の中断を経て復刊。古美術、古典文学に留まらず、現代イタリアの文化も紹介するようになる。 |
1955 |
1 |
「太陽の下に新しいものはない」(ラ・ブッソラ画廊、トリノ)。批評家ルイジ・カルルッチョ企画。抽象主義、社会的リアリズムの作家など、「はざまの世代」によるグループ展。 |
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|
『イル・ジェスト(Il Gesto)』創刊(ミラノ)。バイとダンジェロが編集。 |
|
6 |
「イル・ジェスト 自由形態国際展(Il gesto. Rassegna internazionale delle forme libere)」(シュッティーニ画廊、ミラノ)。核運動が企画したグループ展。アレシンスキー、バイ、コルネイユ、ダンジェロ、フォンタナ、エルンスト、アンタイ、ヨルン、マッタが展示。 |
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11 |
第7回ローマ・クァドリエンナーレ。企画展「1910年から1930年までのイタリア美術のアンソロジー」が開催されるほか、ブッリの「袋」、フォンタナの「空間概念」、抽象主義の作品などを展示。マンズーがクァドリエンナーレ賞を受賞。 |
|
― |
ファッツィーニ、フィレンツェのアカデミア美術学校の彫刻科教授に就任。1958~1980年はローマのアカデミア美術学校で教鞭を執る。 |
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4 |
「現代イタリア美術展」(神奈川県立近代美術館)。グットゥーゾ、カンピッリ、シローニ、デ・キリコなど10人の作家を展観。 |
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5 |
「第3回国際美術展」(東京都美術館)。毎日新聞社主催。海外美術を紹介する大規模な国際展。この年に開設された日本国際美術展賞ではファッツィーニが外務大臣賞を受賞。イタリア具象彫刻ブームのきっかけとなる。 |
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6 |
第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ。国際大賞=棟方志功(版画)。国内大賞=アフロ(絵画)、グレコ(彫刻)。イタリア館でデ・キリコ回顧展。アメリカ館でデ・クーニング、クライン、ポロック、ステラ、トビーの展示。 |
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8 |
◎「これが明日だ」(ホワイトチャペル・ギャラリー、ロンドン)。ポップ・アートの台頭。 |
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― |
ジャン・ピエーロ・ジャーニ『空間主義 : ある芸術傾向の起点と展開』刊行。 |
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ジオ・ポンティ設計《ピレッリ高層ビル》(通称ポレッローネ)竣工(ミラノ)。 |
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11 |
「今日の美術展」(日本橋高島屋、東京ほか)。タピエ企画。アンフォルメル、抽象表現主義などを紹介。イタリア人作家では、フォンタナ、カポグロッシ、ドーヴァ、モレーニ、ブッリ、ミルコが展示。 |
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― |
彫刻家の吾妻兼治郎がイタリアに留学。ブレラ美術学校でマリーニに師事する。 |
1957 |
1 |
イヴ・クライン個展「Proposte Monochrome, Epoca Blu」(アポリネール画廊、ミラノ)。《12のモノクローム絵画》を展示。フォンタナが1点購入。 |
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|
雑誌『イル・ヴェッリ(Il Verri)』創刊(ミラノ)。ルチアーノ・アンチェスキ編集。 |
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9 |
宣言文「反スタイル(Contro lo stile)」が起草される。クライン、レスタニー、ピエロ・マンゾーニ、バイ、ダンジェロらが署名。 |
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11.19 |
「アルベルト・ブッリ絵画展」(カーネギー・インスティテュート、ピッツバーグ)。ジェームズ・ジョンソン・スウィーニー監修。 |
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11 |
アッティコ画廊(Galleria L'Attico)開廊(ローマ)。後のアルテ・ポーヴェラの作家や国外の作家(ソル・ルウィット、スミッソン、ヨーゼフ・ボイス、ギルバート&ジョージ)を紹介する場となる。ダンス、パフォーマンスなどのイベントも開催した。 |
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|
マンゾーニ、「アクローム(Achrome)」シリーズの最初の作品を手掛ける。 |
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モランディ、サンパウロ・ビエンナーレで絵画部門大賞受賞。 |
1958 |
1 |
フランシス・ベーコン個展(ガラテア画廊、トリノ)。イタリアで初。この頃、ベーコンの絵はミケランジェロ・ピストレットをはじめイタリアの若い画家たちに影響を与えた。 |
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3 |
ジャクソン・ポロック展(ローマ国立近代美術館)。 |
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4.22 |
マンゾーニ個展「アクロームズ(Achromes)」(パーテル画廊、ミラノ)。白のモノクローム絵画を発表。 |
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4 |
◎オットー・ピーネ、ハインツ・マックらが「グループ・ゼロ」結成(デュッセルドルフ)。マンゾーニがメンバーと交流。 |
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5 |
トゥオンブリ初個展(ラ・タルタルーガ画廊)。パルマ・ブカレッリ企画。 |
|
6 |
「アメリカの新しい絵画(The New American Painting - La nuova pittura americana)」(ミラノ市立近代美術館)。タピエとピストイによる企画。ポロック、クライン、トビー、デ・クーニング、フォートリエ、ヴォルス、アッカルディ、ヴェドヴァ、カポグロッシ、フォンタナ、モレーニ、具体の作家らが展示。 |
|
|
第29回ヴェネツィア・ビエンナーレ。国内大賞=オズヴァルド・リチーニ(絵画)、ウンベルト・マエストロヤンニ(彫刻)。中央館の特別展示でブラック個展、ヴォルス回顧展。「イタリアと諸外国の若い芸術家」で、バイ、クリッパ、ドラツィオ、スカナヴィーノ、ジャスパー・ジョーンズが展示。 |
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|
ロテッラ、この頃からローマとパリを行き来し、ヌーヴォーレアリスムの作家たちと交流。 |
|
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フォンタナ、「裂け目(Tagli)」シリーズを手掛ける。 |
|
|
クネリス、「アルファベト(Alfabeto)」シリーズを手掛ける。 |
1959 |
2 |
フォンタナ個展「裂け目(Tagli)」(ナヴィーリオ画廊)。キャンバスの表面をナイフで切り裂くシリーズを初展示。 |
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4 |
「アルテ・ノーヴァ」(パラッツォ・グラネッリ、トリノ)。日本の具体や他国のアンフォルメルを紹介するグループ展。 |
|
5 |
ラウシェンバーグ個展(ラ・タルタルーガ画廊)。「コンバイン・ペインティング」を展示。 |
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12.28 |
第8回ローマ・クァドリエンナーレ。ジョルジョ・カステルフランコとダリオ・ドゥルベによる企画展「1930年から1945年までの若きローマ派への一瞥」では、カヴール通り派、色調主義、レアリズム、戦後の表現主義など、ローマの芸術を概観。 |
|
12 |
アジムート画廊(la galleria Azimuth)設立。マンゾーニとエンリコ・カステラーニが運営。マンゾーニの《線(Linee)》シリーズの個展で開廊。機関紙『アジムート(Azimuth)』も創刊し、カンバスを表面に還元することを主張。ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズを紹介するほか、ドルフレス、クルト・シュヴィッタース、東野芳明らのテキストを収録した。同誌は2号まで発行。 |
|
― |
この年、「グルッポT」結成(ミラノ)。イタリアにおけるキネティック・アートのグループ。メンバーは、ジョヴァンニ・アンチェスキ、ダヴィデ・ボリアーニ、ジャンニ・コロンボ、ガブリエレ・デ・ヴェッキ。10月に宣言文を起草。+[引用を読む]
- 「だから、わたしたちは現実を、現実の絶えまない生成であり、しかもそれは変化の中でのみほんとうに認識されるのだと考える。こうした意味での現実こそ、人間の意識(もしくは単に直観)のなかの固定した不変の現実にとって代わるものであるから、わたしたちは現実を生成のなかで表現しようという意図を、はっきりと芸術のなかに確認しようと思う。」[*12]
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|
「グルッポN(Gruppo N)」結成(パドヴァ)。メンバーは、アルベルト・ビアージ、エンニオ・キッジョ、トーニ・コスタ、エドゥアルド・ランディ、マンフレード・マッシローニ。グルッポTと近い問題系を追求しながら、シネヴィジュアルアート、実験音楽、建築など、ジャンルを超えて活動。 |
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エットーレ・ソットサス・ジュニアがコンパッソ・ドーロ賞受賞。 |
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カステラーニ《黒の表面(Superficie nera)》。 |
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ローマ国立近代美術館がブッリの《袋(大)》を購入したことを共産党議員が問題視。国会での質疑応答にまで持ち込んで紛糾する。+[引用を読む]
- 「《袋(大)》とかいうタイトルのもと、ブッリ本人が額にはめたあの古くて汚くてズタズタで梱包材同然の画布に、ローマ国立近代美術館は一体いくら払ったのか?」[*13]
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5 |
「世界の中の抽象 : イタリア・日本美術展」(白木屋)。ラ・サリータ画廊から提供された現代イタリア絵画と、日本の抽象絵画を展観。ブッリ、アッカルディ、ノヴェッリ、ロテッラ、佐野繁次郎などが展示。 |
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― |
この頃、宮脇愛子がミラノに移住。カステラーニ、マンゾーニらと交流。 |
1960年代 |1961|1962|1963|1964|1965|1966|1967|1968|1969|
1960 |
1 |
「新しい芸術概念(Nuova concezione artistica)」(アジムート画廊)。マンゾーニ、カステラーニ、クライン、マックらが展示。あわせて雑誌『アジムート』2号が刊行され、マンゾーニらが寄稿。+[引用を読む]
- 「私には表面の限界点を厳格に定め、そこに形態と色彩を正確な関係と厳格な均衡点に置こうとする今日の芸術家が理解できない。どうして空間に一本の線を置くことに悩むのか。どうして空間を確定しようとするのか。どうして限定するのか。形態の構図、空間の中の形態、空間的奥行き、といった問題は我々には無関係である。一本の線を無限に長く引けばよいのである。構図と次元のすべての問題を超えて。」[*14]
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|
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「ミリオラマ1」(パーテル画廊、ミラノ)。グルッポTによる展覧会。コロンボ、アンチェスキ、ボリアーニ、デ・ヴェッキが展示。同グループはこの後、通算14回の展覧会を開催。「ミリオラマ6」からグラツィア・ヴァリスコがメンバーに加わる。 |
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フランチェスコ・ロ・サヴィオ個展(セレクタ画廊、ローマ)。《空間-光(gli Spazio - Luce)》発表。 |
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|
◎「モノクローム絵画展」(ドイツ)。ウド・クルターマン企画。イタリア人作家では、ロ・サヴィオ、フォンタナ、ドラツィオ、カステラーニ、マンゾーニらが出品。 |
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4 |
「ヌーヴォー・レアリスト(Les Nouvelles R´ealiste)」(アポリネール画廊、ミラノ)。ヌーヴォー・レアリスムの作家によるグループ展。クライン、アルマン、ティンゲリー、セザール、ロテッラらが展示。「ヌーヴォー・レアリスム宣言」も発表。 |
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6 |
クネリス個展(ラ・タルタルーガ画廊)。「アルファベット」シリーズ発表。 |
|
|
第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ。国際大賞=フォートリエ、アルトゥング(絵画)。国内大賞=ヴェドヴァ(絵画)、コンサグラ(彫刻)。アルガン、マルキオーリらが審査員を務める。中央館で未来派の回顧展。 |
|
11 |
「ローマの5人の画家(5 pittori - Roma 60)」(ラ・サリータ画廊、ローマ)。ピエール・レスタニー企画。フランコ・アンジェリ、ターノ・フェスタ、ロ・サヴィオ、マリオ・スキファーノ、フランコ・ウンチーニが展示。 |
|
12 |
「グルッポN」の初のグループ展「誰も中に入ることができない(Nessuno `e invitato a intervenire)」(スタジオN、パドヴァ)。メンバーのアトリエで非公開で開催。+[ノートを読む]
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|
「反-無宣言(il manifesto Contro il nulla)」が起草される。マンゾーニ、カステラーニ、ハインツ・マック、オットー・ピーネが署名。 |
1961 |
5 |
◎「ダダより40℃高熱」(Galerie J、パリ)。ヌーヴォー・レアリスムの作家たちによるマニフェスト発表。 |
|
6 |
「Gruppo 0+0」のグループ展(ラ・サリータ画廊)。ロ・サヴィオ企画。クライン、マック、ピーネ、ユッカーが展示。ロ・サヴィオはデュッセルドルフの「グループ・ゼロ」のメンバーと交流。 |
|
10 |
マンゾーニ個展(Galleria Kopcke、コペンハーゲン)。《芸術家の糞》発表。 |
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|
◎「アッサンブラージュの芸術」(ニューヨーク近代美術館)。 |
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1 |
「イタリア現代彫刻展」(日本橋・高島屋、東京)。1910年から1960年代に到るイタリア現代彫刻を3つの世代に分けて紹介。マリーニ、マンズー、マルティーニ、ファッツィーニ、グレコ、フォンタナなどを展示。 |
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12 |
「ミリオラマ9」(南画廊、東京)。瀧口修造がオーガナイズ。リーフレットには瀧口とムナーリによるテキストと、グルッポTの宣言文の翻訳を掲載。展覧会後の瀧口によるテキスト。+[引用を読む]
- 「この小さな展示はグループTの最初の紹介であるばかりでなく、『動く芸術』としての最初のマニフェストでもあると思う。すでに実験工房や具体、ネオダダにこの種のこころみが見られたが、さらに意識的で組織的な制作のための示唆になれば幸いである。」[*15]
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1962 |
5 |
「アルテ・プログランマータ展」(ミラノ・オリヴェッティ・ショールーム)。オリヴェッティ社宣伝部のジョルジュ・ソアーヴィが企画。グルッポT、グルッポN、ムナーリらが参加。ヴェネツィア、ローマ、トリエステ、デュッセルドルフ、ロンドンを巡回。 |
|
6 |
「イタリア絵画の新しい眺望展」(パラッツォ・レ・エンツォ、ボローニャ)。フランチェスコ・アルカンジェリ企画。スキファーノ、フェスタ、ロ・サヴィオ、ウンチーニが出品。 |
|
|
第31回ヴェネツィア・ビエンナーレ。国内大賞=カポグロッシ、モルロッティ(絵画)。中央館で「イタリア象徴派の作家たち展」。アンフォルメルを紹介する企画展では、フォートリエ、アルトゥング、ヴェドヴァ、コンサグラが展示。 |
|
10 |
◎「ニュー・リアリスツ」(シドニー・ジャニス画廊、NY)。イタリア人作家では、スキファーノが展示。 |
|
― |
この年、「グルッポ1」誕生(ローマ)。メンバーは、ガストーネ・ビッジ、ナート・フラスカ、アキッレ・パーチェ、パスクァーレ・サントーロ、ジュゼッペ・ウンチーニ。 |
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ロ・サヴィオ『空間-光 : ある構想の展開』刊行。 |
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|
ローマ日本文化会館開館。吉田五十八、谷口吉郎が設計。 |
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◆グァルティエロ・ヤコペッティ監督「世界残酷物語」公開。 |
1963 |
2.6 |
マンゾーニ死去(ミラノ)。享年29歳。 |
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2.9 |
「13人のローマの画家(13 pittori a Roma)」(ラ・タルタルーガ画廊)。アンジェリ、フェスタ、クネリス、ロテッラ、トゥオンブリらが展示。 |
|
3 |
「グルッポ1」のグループ展(リッタ画廊、ジェノヴァ)。 |
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4 |
ジャコモ・バッラ回顧展(トリノ市立近現代美術館)。 |
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5 |
ピストレット個展(ガラテア画廊)。「鏡絵画」のシリーズを発表。 |
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6 |
第4回サンマリノ・ビエンナーレ。「アンフォルメルを超えて」をアルガンが企画。キネティック・アートとプログラム・アートの作家が展示。 |
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12 |
リキテンシュタイン展(イル・プント画廊、トリノ)。ソナベンド画廊と協同で開催。後のアルテ・ポーヴェラ系の作家たちに影響を与える。 |
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― |
この年、ラ・タルタルーガ画廊はポポロ広場内に移転。スキファーノ、フェスタ、アンジェリらが集い、イタリアのポップ・アート勢とも言える「ポポロ広場派(La Scuola di piazza del Popolo)」が誕生。 |
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11 |
「カポグロッシ」(東京画廊)。リーフレットに針生一郎が寄稿。+[引用を読む]
- 「そこには爆発する哄笑があると同時にきびしい沈黙がある。クラヴサンの美しい和音があるとともに、ぶきみなタム タムのひびきがある」。[*16]
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1964 |
6.14 |
モランディ死去(ボローニャ)。翌7月に美術史家のフランチェスコ・アルカンジェリがモランディのモノグラフを刊行。 |
|
6 |
第32回ヴェネツィア・ビエンナーレ。アメリカのポップ・アートが台頭。本会場の外で展示したラウシェンバーグがアメリカ人美術家として初の国際絵画大賞受賞。中央館でカゾラーティ、セメギーニの回顧展。イタリア館でグルッポTとグルッポNの展示。 |
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8.19 |
ソッフィチ死去(ポッジョ・ディ・カィアーノ)。 |
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11 |
マリオ・チェーロリ個展(ラ・タルタルーガ画廊)。《レオナルドの人体》《アダムとイヴ》など展示。 |
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― |
この年、「グルッポMID」結成(ミラノ)。翌年にミラノで初のグループ展。 |
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8 |
長岡現代美術館開館(新潟)。国内で初めて「現代」と銘打った美術館。大光コレクションを引き継ぎ、国際的視野のもとで活動を行なう。 |
1965 |
1 |
ピーノ・パスカーリ初個展(ラ・タルタルーガ画廊)。 |
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4 |
◎「ヌル65」(アムステルダム市立美術館)。オランダのヌルとグループ・ゼロが主催。グルッポT、具体らが展示。 |
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5 |
ルーチョ・フォンタナのアトリエで「ゼロ・アヴァンギャルド展」。フォンタナ、マンゾーニ、ボナルーミ、カステラーニ、シメーティ、ヴィーゴ、ハンス・ハーケ、ハインツ・マック、オットー・ピーネ、ソト、ユッカーほか30人が展示。その後、イル・プント画廊、カヴァリーノ画廊でも「ゼロ・アヴァンギャルド」を開催。 |
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11.20 |
第9回ローマ・クァドリエンナーレ。ドンギ、マファイ、モランディ、シローニなどの回顧展。グルッポT、グルッポ1などが展示。 |
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12 |
ジャンニ・コロンボ個展(ラ・タルタルーガ画廊)。 |
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3 |
「ムナーリ展」(新宿・伊勢丹、東京)。日本初のムナーリ展。 |
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5.11 |
「現代イタリア絵画展 : その最新の傾向」(BSN新潟美術館)。カポグロッシ、フォンタナ、カステラーニ、スキファーノなどイタリア人作家19人と阿部展也が展示。 |
1966 |
1 |
パスカーリ個展(スペローネ画廊、トリノ)。《大砲》を展示。 |
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6 |
「生活芸術(Arte Abitabile)」(スペローネ画廊)。ジャンニ・ピアチェンティーノ、ピエロ・ジラルディ、ピストレットが展示。アルテ・ポーヴェラの前哨となる。チェラントによる展覧会評。+[引用を読む]
- 「生命空間が芸術空間に溶け込んで調和し、芸術を住めるものとするような作品を初めて展示した。」[*17]
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第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ポップ・アート、オプ・アート、キネティック・アートが台頭。国際大賞=ジュリオ・ル・パルク(絵画)、池田満寿夫(版画)。国内大賞=フォンタナ(絵画)。中央館でモランディ、ボッチョーニの回顧展。イタリア館でチェーロリ、カステラーニ、ドラツィオ、ムナーリらが展示。 |
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10 |
パスカーリ個展「新しい彫刻(Nuove Sculture)」(アッティコ画廊)。「動物」「海」シリーズなど、「偽彫刻」と呼ばれる一連の作品を11点展示。 |
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11 |
マンズーの回顧展(モスクワ)。同年、マンズーはレーニン賞を受賞。 |
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フィレンツェのアルノ川が氾濫。多くの芸術作品が洪水被害に見舞われ、以後20年間に渡って復旧・修復作業が行われる。 |
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― |
◎「プライマリー・ストラクチャーズ:若いアメリカ人とイギリス人の彫刻家」(ジューイッシュ美術館、NY)。 |
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3 |
ジャコモ・マンズー展(ギャラリー・キューブ、東京)。 |
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11 |
カステラーニが第3回長岡現代美術館賞を受賞。 |
1967 |
3 |
クネリス個展「Il giardino/i giuochi」(アッティコ画廊)。コットンのバラや生きた鳥の入った鳥籠の作品などを展示。 |
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6 |
「諸要素の空間 : 火・イメージ・水・土(Lo spazio degli elementi. Fuoco, immagine, acqua,
terra)」(アッティコ画廊)。批評家A・ボアットとカルヴェージが企画。クネリス《マルゲリータの火》、パスカーリ《1立方メートルの土》《9平方メートルの井戸》ほか、ビニャルディ、チェーロリ、ジラルディ、ピストレット、スキファーノが展示。 |
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「イメージの空間」(パラッツォ・トゥリンチ、フォリーニョ)。ジラルディ、ピストレット、チェーロリ、パスカーリ、ルチアーノ・ファブロ、ファンタナなどが展示。 |
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8 |
長澤英俊がミラノに到着。カステラーニ、ファブロと出会い、彼らを通じてマンゾーニ、フォンタナ、アルテ・ポーヴェラの動向を知る。 |
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9 |
「アルテ・ポーヴェラとIM空間(Arte Povera IM-Spaio)」(ラ・ヴェルテスカ画廊、ジェノヴァ)。ジェルマーノ・チェラント企画。アルテ・ポーヴェラとIM空間(Immagine spazio)の2セクションで展示。クネリス《炭の堆積》、アリギエロ・ボエッティ《長すぎるロープの山》、ファブロ《床の上のトートロジー》、ジュリオ・パオリーニ《空間の文学》など。チェラントのテキストにより、「アルテ・ポーヴェラ」の呼称が公になる。 |
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10 |
チェラント、「アルテ・リッカ/豊かな芸術」を『カザベッラ』に寄稿。 |
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11 |
クネリス個展(アッティコ画廊)。生きたオウムやサボテンの畑を展示。 |
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『フラッシュ・アート』にチェラントが「アルテ・ポーヴェラ ゲリラ戦のためのノート」を寄稿。 |
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12.4 |
「時間と行為・凝視(Con temp l'azione)」(イル・プント画廊/クリスチャン・ステイン画廊/スペローネ画廊)。3画廊で同時開催。 |
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12 |
第2回アルテ・ポーヴェラ展(ジェノヴァ大学美術史研究所)。 |
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― |
ピストレットが演劇集団「Zoo」結成。劇場や街頭でパフォーマンスを行う。 |
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9 |
「現代イタリア美術展」(東京国立近代美術館、ローマ国立近代美術館)。日本で既に知られているカポグロッシ、フォンタナ、ブッリをはじめ、コッラ、ドラツィオ、ヴェドヴァ、グルッポT、グルッポN、ポップ・アート勢(スキファーノ、ヴァレリオ・アダミ、ロテッラ)、マンゾーニ、ロ・サヴィオなど、1930年代生まれの作家を中心に50名約100点を展示。 |
1968 |
2 |
第2回目のアルテ・ポーヴェラ展(デ・フォスケラリ画廊、ボローニャ)。ジェルマーノ・チェラント企画。ジョヴァンニ・アンセルモ、チェーロリ、ファブロ、クネリス、マリオ・メルツ、パオリーニ、パスカーリ、ミケランジェロ・ピストレット、エミリオ・プリーニ、ジルベルト・ゾリオが展示。 |
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ルカ・ランコーニ演出「リチャードIII世」(トリノ市立劇場)。チェーロリが舞台装置で協力。 |
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3 |
第3回目のアルテ・ポーヴェラ展(チェントロ・アルテ・ヴィーヴァ・フェルトリネッリ、トリエステ)。アンセルモ、ボエッティ、ファブロ、クネリス、マリオ・メルツ、パオリーニ、ピアチェンティーノ、ピストレット、プリーニ、ゾリオが展示。 |
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5.6-31 |
「展覧会の劇場(il teatro delle mostre)」(ラ・タルタルーガ画廊)。プリニオ・デ・マルティイス企画。美術家、詩人、音楽家など、20人の作家が一夜限りの公演を連続開催。ハプニングの先駆けとも言うべき内容となる。パオリーニ、カルツォラーリ、アンジェリ、チェーロリ、カステラーニ、ボエッティらが参加。 |
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5 |
第14回ミラノ・トリエンナーレ。パリの学生運動の影響で一時閉鎖、6月に開会となる。 |
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6.22 |
第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ。パスカーリに一室が与えられる。学生運動の余波で暴動が起き、「商業主義の象徴」として攻撃されたビエンナーレは一時閉鎖。国内大賞=コロンボ(絵画)、パスカーリ(彫刻)。 |
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6 |
◎第4回ドクメンタ。フォンタナ、コロンボ、カステラーニ、ロ・サヴィオ、マンゾーニ、マリ、ムナーリ、ピストレットらが展示。 |
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9.11 |
パスカーリがオートバイ事故により死去(ローマ)。享年33歳。 |
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10.4-6 |
「アルテ・ポーヴェラ+アッツィオーニ・ポーヴェレ(Arte povera pi`u Azione povere)」(アルセナーリ・デッランティーカ・レプッブリカ、アマルフィ)。チェラント企画。アンセルモ、ボエッティ、ファブロ、クネリス、マリオ・メルツ、マリサ・メルツ、パオリーニ、パスカーリ、ピアチェンティーノ、ピストレット、ゾリオなどが展示。 |
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12.22 |
ガストーネ・ノヴェッリ死去(ミラノ)。 |
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2 |
「エンリコ カステラーニ」(東京画廊)。1967年制作の近作を中心に10点展示。パンフレットに中原佑介が寄稿。+[引用を読む]
- 「規則的な起伏は空間の連続性を示し、かつ無限の反復を暗示している。その無限は暗示ではあるけれども、空間内の一点の振動が、減衰することなく伝播してゆくのに似て、視覚のなかで終りのない共鳴現象をよびおこすのである。」[*18]
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1969 |
1.14 |
クネリス個展(アッティコ画廊)。ギャラリーの地下ガレージで12頭の生きた馬を展示。 |
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3 |
◎「態度が形になるとき : 作品―概念―過程―状況―情報」(クンストハレ、ベルン)。 |
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5.2 |
ソル・ルウィット個展(アッティコ画廊)。イタリアで初。 |
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5.31 |
ピーノ・パスカーリ展(ローマ国立近代美術館)。 |
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12 |
◆フォンタナ広場爆発事件(ミラノ)。「鉛の時代」に突入。 |
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― |
アンセルモ初個展(スペローネ画廊)。《ねじれ(torsione)》などを展示。 |
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チェラント『アルテ・ポーヴェラ』刊行。+[引用を読む]
- 「芸術を実践することは、生きること、存在することと同じであり、空想的、政治的、美的なことなど、まさに生きることの様相を絶えず再発見する意味をもつのである。重要なのは、自己正当化することではなく、自己を作品や生産物のなかに反映させるのでもなく、作品として生きること、世界を知るために驚くこと、人生のすべての事象(死、不条理、狂気、偶然性、自然、永遠性、現実性、非現実性、発達、共生)に心を開くことである。」[*19]
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チェラントが前衛デザイン運動「ラディカーレ」を命名。 |
1970年代 |1971|1972|1973|1974|1975|1976|1977|1978|1979|
1970 |
4.17 |
ドメニコ・ニョーリ死去(NY)。 |
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5.31 |
「視覚化された思考のプロセス(Processi di pensiero visualizzati: Junge italienische Avantgarde)」(Kunstmuseum Luzern)。イタリア国外で初の本格的なアルテ・ポーヴェラ展。 |
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6 |
第35回ヴェネツィア・ビエンナーレ。賞制度を廃止。 |
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「コンセプチュアル・アート、アルテ・ポーヴェラ、ランド・アート(Conceptual Art, Arte Povera, Land Art)」(トリノ市立近代美術館)。チェラント企画。ルーシー・リッパード協力。 |
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7 |
◎「インフォメーション」(ニューヨーク近代美術館)。 |
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― |
この頃から、マリオ・メルツがフィボナッチ級数をとりいれた作品を制作。 |
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5 |
第10回日本国際美術展「人間と物質」(東京都美術館ほか)。イタリア人作家では、ファブロ、クネリス、マリオ・メルツ、ペノーネ、ゾリオが展示。 |
1971 |
5.6 |
阿部展也死去(ローマ)。享年58歳。 |
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5 |
「アルテ・ポーヴェラ : イタリアの13人の美術家(Arte Povera : 13 Italienische K¨unstler)」(ミュンヘン美術協会)。 |
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― |
◆ルキーノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」公開。 |
1972 |
6.12 |
「Music and Dance in USA 1972」(アッティコ画廊)。スティーヴ・ライヒ、トリシャ・ブラウンらがパフォーマンス。 |
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6 |
第36回ヴェネツィア・ビエンナーレ。この回から統一テーマを設定。初となるテーマは「作品か行為か」。中央館で「現代のイタリア彫刻」。コンサグラ、フォンタナ、メロッティ、パスカーリ、マストロヤンニらが展示。 |
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◎第5回ドクメンタ。アンセルモ、ボエッティ、カゾラーティ、ファブロ、クネリス、マリオ・メルツ、パオリーニ、ペノーネらが展示。 |
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― |
ボエッティ、「地図(Mappa)」シリーズを初めて展示。 |
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4 |
「イタリア現代美術展」(伊勢丹、東京)。具象絵画・彫刻約130点を紹介。 |
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「現代イタリア彫刻の全貌展」(東武百貨店ほか)。近代彫刻の祖であるロッソから未来派、デ・キリコ、モジリアーニ、戦後彫刻まで、約140点を紹介。 |
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「現代彫刻の最高峰 : エミリオ・グレコ名作展」(京王百貨店、東京ほか)。彫刻約50点、メダル22点、素描、銅版画、石版画などを展示。 |
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5 |
「近代イタリア美術の巨匠たち : ジャンニ・マッティオーリ・コレクションより」(東京国立近代美術館ほか)。未来派、形而上絵画、モジリアーニ、モランディなど約100点を紹介。 |
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5 |
「ジョルジョ・モランディ : 1890-1964」(ローマ国立近代美術館)。 |
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― |
この年、フランチェスコ・クレメンテがインドを訪問。 |
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10 |
「よみがえるロマネスク : マッシモ・カンピリ展」(東京セントラル美術館)。油彩50点とリトグラフ、エッチングを展示。カタログに岡本太郎が寄稿。+[引用を読む]
- 「北欧系の固い冷たさにくらべて、彼はラテン系の、柔いノスタルジアをたたえた優美な絵を描いた。若かったパリ時代、私は北欧とラテン系との間にどのように己が対応すべきかと周囲を凝視していたが、カンピリはそのひとつの指唆であった。」[*20]
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11 |
「デ・キリコ展 : デ・キリコによる」(神奈川県立近代美術館ほか)。1971年にNYで開催された展覧会と同じタイトルの日本展。デ・キリコ自身による選定で、《不安な美神たち》(1925)をはじめ160点を展示。 |
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「ジャコモ・マンズー展」(東京国立近代美術館)。初期から近作までを集めた回顧展。 |
1974 |
― |
この年はヴェネツィア・ビエンナーレが中止となる。 |
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5 |
「現代イタリア彫刻展」(西武渋谷店)。マルティーニ、マンズー、マリーニ、グレコ、ファッツィーニなど具象系の彫刻家10数名を紹介。 |
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― |
ジョルジョ・デ・マルキスがイタリア文化会館館長に就任(~1978年、1982~1992年)。 |
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彫刻の森美術館にマンズーの彫刻を集めた「マンズールーム」開室。 |
1975 |
1.4 |
カルロ・レーヴィ死去(ローマ)。 |
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― |
◆ピエル・パオロ・パゾリーニ、殺害される(オスティア)。 |
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7 |
「現代イタリア版画の50年」(彫刻の森美術館、神奈川)。第二次世界大戦後から約50年のあいだに活躍したイタリア人作家22名の版画を紹介。モランディ、バルトリーニ、マッカーリ、ムナーリ、グェッリーニ、マンゾーニなど。 |
1976 |
6 |
ピストレット回顧展(パラッツォ・グラッシ)。 |
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7.18 |
第37回ヴェネツィア・ビエンナーレ。中央館で「環境/芸術 1915-1976」。ジャルディーニ以外での企画展「ファシズム期の合理主義とイタリア建築」。 |
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コレクターのエミリオ&マリア・イエージ夫妻が50点の20世紀美術コレクションをブレラ絵画館に寄贈。 |
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◆ベルナルド・ベルトルッチ監督「1900年」公開。 |
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11 |
「七人のイタリア作家と七人の日本作家 : 新しい認識への方法・美術の今日展」(イタリア文化会館、東京)。イタリア人作家と日本人作家を2期に分けて展示。カステラーニ、キアーリ、イノチェンテ、ロンバルド、モケッティ、パオリーニ、ヴァッカーリ、藤原和通、池田龍雄、小本章、松沢宥、長澤英俊、菅木志雄、高松次郎。カステラーニは「展覧会の劇場」で発表された《時の壁》を展示。 |
1977 |
6 |
エンツォ・クッキ個展「家の肖像」(インコントリ・インテルナッツィオナーレ・ダルテ、ローマ)。 |
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― |
この年、クレメンテがマドラスに移住(~79年)。 |
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6 |
「エンリコ・カステラーニ展」(自由が丘画廊、東京)。水彩5点と版画14点を展示。 |
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10 |
「フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術」(東京国立近代美術館)。約90点のフォンタネージ作品をはじめ、彼に指導を受けた工部美術学校の生徒(浅井忠、小山正太郎、松岡寿ら)、明治前期の洋画、ラグーザとその門下生の作品など、あわせて約250点を紹介。 |
1978 |
6.1 |
「日常の形而上学(Metafisica del quotidiana)」(ボローニャ市立近代美術館)。 |
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7.20 |
第38回ヴェネツィア・ビエンナーレ。テーマ「自然から芸術へ、芸術から自然へ」。 |
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4 |
「マリノ・マリーニ展」(東京国立近代美術館ほか)。彫刻、絵画、素描など138点を展示。+[ノートを読む]
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6 |
「セガンチーニ展 : アルプスの牧歌と幻想」(小田急グランドギャラリー、東京ほか)。生誕120年記念。油彩、素描、版画を約100点展示。 |
1979 |
11 |
「部屋(Le stanze)」(カステッロ・コロンナ、ジェンツァーノ)。オリーヴァ企画。アルテ・ポーヴェラ系の作家12人と、クッキ、サンドロ・キア、クレメンテ、ニコラ・デ・マリア、ミンモ・パラディーノらが展示。 |
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― |
オリーヴァが「イタリアのトランスアヴァングァルディア」を『フラッシュ・アート』10・11月号に寄稿。クッキ、キア、クレメンテ、パラディーノをトランスアヴァングァルディアの代表作家として紹介。翌年、書籍として刊行。 |
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4 |
「イタリア印象派展 : 近代絵画のあけぼの」(伊勢丹、東京)。日本初のマッキアイオーリ派の紹介。 |
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10 |
「近代イタリア美術と日本 : 作家の交流をめぐって」(国立国際美術館、大阪)。「戦後の交流」「未来派などの影響」「工部美術学校の創設」の3部構成。フォンタナ、マンゾーニ、デ・キリコ、フォンタネージ、阿部展也、長沢英俊、絹谷幸司、関根信夫、柳瀬正夢、東郷青児など、イタリア人作家38人、日本人作家28人、作品約120点を紹介。 |
1980年代 |1981|1982|1983|1984|1985|1986|1987|1988|1989|
1980 |
1 |
◎「レ・レアリスム:1919-1939」(ポンピドゥー・センター、パリ)。 |
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5 |
「形而上派:20年代(La metafisica : Gli anni venti)」(ボローニャ市立近代美術館)。 |
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6 |
第39回ヴェネツィア・ビエンナーレ。テーマ「1968-80年における芸術家の実験と作品」。ジャルディーニ外でオリーヴァとハラルド・ゼーマン企画による「アぺルト80」開催。クッキ、キア、クレメンテ、パラディーノ、デ・マリア、シュナーベル、ボロフスキーなど41作家が展示。この年から国際建築展も開催。 |
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― |
オリーヴァ『イタリアのトランスアヴァングァルディア』刊行。 |
1981 |
1 |
◎「ア・ニュー・スピリット・イン・ペインティング」(ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、ロンドン)。ノーマン・ローゼンタール、クリストス・M・ ヨアヒミデス、ニコラス・セロタ企画。 |
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6 |
「イタリアのアイデンティティ:1959年以降のイタリア美術」(ポンピドゥ・センター)。アルテ・ポーヴェラを体系的に紹介。 |
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9 |
ジョルジョ・モランディ展(サンフランシスコ近代美術館ほか)。アメリカを巡回する大規模な回顧展。+[引用を読む]
- 「モランディに対する国際的な評価は概して貧しい理解であり、今日のアメリカでは評価が急激に高まったため研究が進んでいない。彼の絵画は経歴の中でかなり隔たった2つの時期のものがよく知られている。1918~1919年の形而上絵画の時代と、戦後の1944~1964年に制作された後期のスタイルによる作品群だ。モランディの全仕事はさらに周知され、理解されるだけの価値がある。純粋絵画の目利きたち、そして哲学的表明を提示する芸術に理解のある人々から、恵まれた評価を受けている芸術家なのだから。」[*21]
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1982 |
1 |
「30年代・文化と芸術」(ミラノ)。「政治と芸術」「芸術とプロパガンダ」「ノヴェチェント」「反ノヴェチェント」「未来派」「抽象」など19のテーマで30年代を考察
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4 |
「アヴァングァルディア/トランスアヴァングァルディア 68-77(Avanguardia/Transavanguardia 68-77)」(Mura Aureliane、ローマ)。オリーヴァ企画。クッキ、キア、クレメンテ、パラディーノ、デ・マリア、キーファー、A・R・ペンク、シュナーベル、サーレ、ボロフスキーを紹介。オリーヴァの同年のテキスト。+[引用を読む]
- 「引用は、様々な文化的モデルの回復にインスピレーションを与える手続きとなったのであるから、用いられているモデルによって今日の芸術家のアイデンティティを決定することは、明らかに不可能である。したがって、アイデンティティの投影としてのモデルは、もはや存在しない。存在しているのは、単なるモデルの道具化なのである。道具化によって、様々な文化的モデルを逸脱の痕跡と逸脱者という単純な構図に即して回復することが可能となる。逸脱は、必然的に変奏(ヴァリエーション)を、アウラと聖性との喪失を、招くわけであるが、遂にこの喪失が、ドラマ、神話、悲劇の回復をもたらす働きをする。トランスアヴァンギャルドの芸術家たちは、これらの文化的カテゴリーの被膜の上で、なかんづくこの回復のための特権的な道具である絵画の被膜の上で、作業を行うのである。」[*22]
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|
|
◎「イタリアン・アート・ナウ(Italian Art Now)」(ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)。 |
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6 |
第40回ヴェネツィア・ビエンナーレ。テーマ「美術としての美術:制作の持続性」。 |
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◎第7回ドクメンタ。企画展「アヴァングァルディア/トランスアヴァングァルディア」などを開催。 |
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10 |
◎「ツァイトガイスト」(マルティン・グロピウス・バウ、ベルリン)。 |
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7 |
「イタリア美術の一世紀展:1880-1980」(和歌山県立近代美術館ほか)。 |
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9 |
「デ・キリコ展 : 孤独と神秘の無言劇」(西武美術館、千葉ほか)。デ・キリコの妻、イザベラ・デ・キリコが選んだ「形而上絵画」16点、「古典的写実絵画」44点、彫刻5点を展示。 |
1983 |
11 |
「ピエロ・マンゾーニ展」(鎌倉画廊、東京)。「アクローム」シリーズを中心に展示。カタログ序文に中原佑介が寄稿。 |
1984 |
6 |
第41回ヴェネツィア・ビエンナーレ。テーマ「美術と諸芸術、その現在と歴史」。 |
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12 |
カステッロ・ディ・リヴォリ現代美術館開館(トリノ)。イタリアで初めて現代美術を専門に展示。アルテ・ポーヴェラをはじめ、60年代以降のコレクションを持つ。 |
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3 |
「フォンタナ展 : 空間の詩学」(西武百貨店コンテンポラリー・アート・ギャラリー、東京)。 |
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7 |
「フランチェスコ・クレメンテ展」(アキライケダギャラリー、東京)。新作11点を展示。 |
1985 |
7 |
「80年代展(Anniottanta)」(ボローニャ)。 |
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― |
震災被害を受けたシチリア西部ジベッリーナのために、ブッリが約12ヘクタールの敷地に《亀裂》を制作(~1989年7月中断)。 |
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6 |
「ルチオ・フォンタナ展」(ギャラリー・アート・ポイント、東京)。油彩16点、オブジェ・デッサン7点を展示。 |
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7 |
「モディリアーニ展」(東京国立近代美術館ほか)。 |
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11 |
「ブルーノ・ムナーリ展」(こどもの城、東京)。来日したムナーリはシンポジウムで講演、子どものためのワークショップも公開。 |
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5 |
「フトゥリズモ&フトゥリズミ(Futurismo&Futurismi)」(パラッツォ・グラッシ、ヴェネツィア)。ポントゥス・フルテン企画。未来派の大回顧展。イタリア未来派と同時代の他国の前衛美術運動を展望。「未来派の夕べ」再演などイベントも開催。 |
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6 |
第11回ローマ・クァドリエンナーレ(EUR - パラッツォ・デイ・コングレッシ)。 |
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第42回ヴェネツィア・ビエンナーレ。テーマ「芸術と科学」。賞制度を再導入。 |
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4 |
「フォンタナ展」(富山県立近代美術館ほか)。初期から晩年までの約100点を紹介。 |
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9 |
「イタリアン トランスアヴァンギャルド」(西武百貨店池袋店6階 ザ・コンテンポラリー・アートギャラリー)。キア、クッキ、クレメンテ、パラディーノ、デ・マリアが展示。全16点。 |
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「イタリアの視覚」(西武百貨店つかしん店美術画廊ほか)。岡田隆彦監修。デ・キリコ、モランディ、フォンタナ、キア、クレメンテ、クッキ、マンズー、マリーニなど約25点展示。 |
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12 |
「イタリア未来派 : 現代社会への激しい宣言」(西武百貨店池袋店6階 ザ・コンテンポラリー・アートギャラリー)。 |
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1 |
「サンドロ・キア展(Sandro Chia : Five Poem for Five Workson Paper and One Sculpture)」(アキライケダギャラリー、東京)。1986年制作の6点を展示。 |
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6 |
「ミンモ・パラディーノ展」(フジテレビギャラリー/佐賀町エキジビット・スペース、東京)。2会場で開催。丹生谷貴志がカタログに寄稿。 |
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9 |
「カポグロッシ展」(鎌倉画廊)。1945年以降のガッシュ、油彩、レリーフなど約10点を展示。カタログ序文に東野芳明が寄稿。 |
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12 |
「ヤニス・クネリス展」(アキライケダギャラリー、名古屋)。60~80年代の作品11点を展示。 |
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― |
ICA,Nagoya設立(名古屋)。私立のアートセンター。6月に「ヤニス・クネリス展」、10月に「ジュリオ・パオリーニ展」。 |
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児玉画廊開廊(大阪)。日本、ドイツ、イタリアの現代美術を紹介。88年頃からイタリア現代美術の展覧会を積極的に開催。この年の6月に「エンリコ・カステッラーニ展」。 |
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6 |
第43回ヴェネツィア・ビエンナーレ。金獅子賞=ジャスパー・ジョーンズ(個人)、イタリア館(国家)。イタリア館で「アンビエンテ・イタリア」「イタリア芸術の現況展」。 |
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― |
◆ジュゼッペ・トルナトーレ監督「ニュー・シネマ・パラダイス」公開。 |
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4 |
「マリオ・メルツ展」(ICA,Nagoya)。来日したメルツが1カ月の滞在で現地制作。 |
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6 |
「エンリコ・カステッラーニ展」(児玉画廊、大阪)。 |
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「20世紀イタリア具象彫刻展 : イタリアからのメッセージ 創造のダイナミズム」(岐阜県美術館ほか)。ロッソ、ボッチョーニ、マルティーニ、マリーニ、マンズー、ファッツィーニ、クロチェッティ、ヴァンジ、チェーロリなどを展示。 |
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7 |
「ピエロ・マンゾーニ : 無限空間の哲学」(ザ・コンテンポラリー・アートギャラリー)。 |
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11 |
ふくやま美術館開館(広島)。新潟の大光コレクションから引き継いだものを中心に、イタリアの近現代美術を数多く所蔵。 |
1989 |
4.30 |
「イタリア美術 1900-1945(Arte Italiana 1900-1945)」(パラッツォ・グラッシ)。ポントゥス・フルテン企画。 |
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5 |
◎「大地の魔術師たち」(ポンピドゥー・センター、パリ)。 |
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2 |
「メダルド・ロッソ展」(鎌倉画廊)。展覧会にあわせてシンポジウム「メダルド・ロッソをめぐって」開催。パネラーは上村清雄、黒川弘毅、中原佑介、堀内正和、松浦寿夫、司会は峯村敏明。+[ノートを読む]
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5 |
「イタリアン・ネオ・モダン : '80年代のアート&デザイン」(ふくやま美術館ほか)。ソットサス、倉俣史朗、クッキ、キア、クレメンテ、パラディーノ、ニコラ・デ・マリアなどを展示。 |
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10 |
「デ・キリコ展」(小田急グランドギャラリー、新宿ほか)。 |
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11 |
「モランディ展」(神奈川県立近代美術館ほか)。日本初の大規模な回顧展。 |
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「マッシモ・カンピーリ展」(イタリア・フォルニ画廊東京店)。16点展示。 |
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― |
ウンベルト・マストロヤンニが第1回高松宮殿下記念世界文化賞の彫刻部門受賞。 |
1990年代 |1991|1992|1993|1994|1995|1996|1997|1998|1999|
1990 |
5 |
第44回ヴェネツィア・ビエンナーレ。統一テーマ「未来の次元」。金獅子賞=アンセルモ(絵画)、ベルント&ヒラ・ヘッヒャー(彫刻)。中央館でカルツォラーリ展。 |
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2 |
「ピエロ・ドラーツィオ展 : 紙による作品100」(児玉画廊)。イタリアから巡回。100点以上を2期に分けて展示。 |
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4 |
「ファッツィーニ展」(世田谷美術館、東京ほか)。柳原義達、佐藤忠良、安田侃など、日本人が数多く師事し、土方定一や今泉篤男も敬愛した彫刻家の回顧展。彫刻約50点、ドローイング100余点を展示。世田谷美術館は1985年からファッツィーニの作品をコレクション。 |
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「LUCIO FONTANA : Spatial Conseption」(多摩美術大学美術参考資料館、東京)。油彩、陶器、ミクストメディアなど、様々な素材と年代による「空間概念」シリーズの作品67点を展示。カタログに峯村敏明が寄稿。 |
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5 |
「メロッティ展」(児玉画廊)。70年代に制作された金属彫刻6点を展示。 |
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「現代美術の神話 ソナベント・コレクション : ネオ・ダダからネオ・ジオまで」(セゾン美術館、東京ほか)。イタリアの作家では、アンセルモ、カルツォラーリ、クネリス、マンゾーニ、マリオ・メルツ、パオリーニ、ピストレット、スキファーノ、ゾリオが展示。 |
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9 |
「イタリア現代美術のゆくえ」(A.T.Gallery、東京)。マリオ・メルツ、パオリーニ、ペノーネ、クレメンテ、クッキの展示。 |
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10 |
「ジャコモ・バッラ展」(児玉画廊)。絵画、立体、タペストリーなど13点を展示。 |
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「マストロヤンニ彫刻展」(彫刻の森美術館ニキ・マルチホール)。彫刻、レリーフ、素描、版画、タピストリーなど110点を展示。 |
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3 |
「知られざる巨匠 メダルド・ロッソ展」(彫刻の森美術館)。彫刻の森美術館所蔵のロッソ作品を展示。その後、常設展示として「ロッソ・ルーム」が開室。
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5 |
「イタリアの現在 : トランスアヴァングアルディアその後(Now in Italy)」(児玉画廊)。アルベルト・ガルッティ、アルカンジェロ、ブルーノ・チェッコベッリ、ジャンフランコ・ダロンツォ、ジュゼッペ・マテニエッロなど12名による25点を展示。 |
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10 |
「軽やかさへの一考展(Un'idea di leggerezza)」(児玉画廊)。イタリアの2都市で開催された展覧会が規模を変えて日本に巡回。バッラ、デ・ピシス、フォンタナ、メロッティ、トゥオンブリ、スキファーノ、パスカーリなどの作品を展示。 |
1992 |
7.9 |
第12回ローマ・クァドリエンナーレ。 |
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4 |
「未来派 FUTURISM 1909-1944」(セゾン美術館ほか)。エンリコ・クリスポルティ監修。多様なジャンルに渡る未来派の活動を3つのセクションで展観。200点以上の作品と資料を展示。 |
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「ルーチョ・フォンターナ展 : 切り開かれた空間」(新宿・三越美術館、東京ほか)。 |
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8 |
「第5回現代芸術祭 創造 : ミラノアート&デザイン」(富山県立近代美術館ほか)。アダミ、ロテッラほか5人のアーティストと、アキッレ・カスティリオーニ、アルド・ロッシほか10人のデザイナーによる約100点を展示。 |
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「現代イタリア陶芸展 1950-1990」(佐賀県立九州陶磁文化館ほか)。ファエンツァ国際陶芸博物館の所蔵品を中心に112点を展示。バイ、カポグロッシ、クリッパ、ドーヴァ、フォンタナ、メロッティ、ザウリなどの陶による作品を展示。 |
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9 |
「サヴェッリ展」(児玉画廊)。NYを拠点に活動するイタリア人画家の日本初個展。 |
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10 |
「アルテ・ポーヴェラ展」(児玉画廊)。アンセルモ、ボエッティ、カルツォラーリ、ファブロ、クネリス、マリオ・メルツ、マリサ・メルツ、パオリーニ、パスカーリ、ペノーネ、ピストレット、ゾリオを紹介。 |
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11 |
「エンリコ・カステラーニ展」(鎌倉画廊)。1980~90年代制作の「sperificie bianca」シリーズを展示。 |
1993 |
6 |
第45回ヴェネツィア・ビエンナーレ。テーマ「アートの基本方位」。オリーヴァが総指揮者を務める。国際絵画大賞=リチャード・ハミルトン、アントニ・タピエス、国際彫刻大賞=ロバート・ウィルソン。次回のビエンナーレを100周年にあわせるため、この年のビエンナーレは一年延期して開催。 |
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6 |
「デ・キリコ展 : 1920-1950」(千葉県立美術館ほか)。 |
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7 |
「大光コレクション展 : 先見の眼差し…再構成。」(新潟県立近代美術館)。全国の美術館に移された大光コレクション約200点をコレクション発祥の地に集める。イタリア人作家では、バッラ、ボッチョーニ、フォンタナ、カポグロッシ、カステラーニを展示。+[ノートを読む]
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10 |
「イタリアン・メタモルフォシス 1943-1968(The Italian Metamorphosis, 1943-1968)」(グッゲンハイム美術館ほか)。チェラント監修。 |
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1 |
「アルナルド・ポモドーロ展」(彫刻の森美術館ほか)。彫刻48点、版画・メダル26点を展示。 |
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4 |
「イタリア・謎と神話 : 1930年・60年・90年の絵画」(ふくやま美術館ほか)。伝統と革新の相克をテーマに約80点を展示。 |
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8 |
「フランチェスコ・クレメンテ : 浮遊する身体・夢想する自我」(セゾン美術館)。約120点を展示。 |
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9 |
「The Italiana : from Arte Povera to Transavanguardia」(ギャルリー・ところ、東京)。アルテ・ポーヴェラとトランスアヴァンギャルディアを2期に分けて紹介。 |
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10 |
「Forma1」(児玉画廊)。イタリアとロンドンを巡回。「フォルマ1」の9人の作家による約20点を展示。 |
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11 |
光と緑の美術館開館(神奈川)。マンズー、マリーニ、モランディなどイタリア近現代美術を所蔵する私立美術館。開館記念展は「ペリクレ・ファッツィーニ展」。 |
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― |
東京造形大学附属横山記念マンズー美術館開館(東京)。マンズーの彫刻と版画を収蔵。 |
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6 |
第46回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ジャン・クレールがイタリア国外から初めて選出された総合ディレクターとなる。100周年に際して企画展「自己性と他者性 : 身体のかたち 1895/1995」をパラッツォ・グラッシほか3会場で開催。アペルト部門は廃止。金獅子賞絵画部門=ロナルド・B・キタイ、彫刻部門=ゲイリー・ヒル。優秀賞にヌンツィオほか。 |
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5 |
「イタリア現代美術に視る『白の宣言』 : 空間主義からアルテ・ポーヴェラまで(BIANCO ; the Declaration of White in Italian Contemporary Art)」(児玉画廊)。フォンタナ、サヴェッリ、コンサグラ、カステラーニ、パオリーニが展示。 |
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11 |
豊田市美術館開館(愛知)。国内外の近現代美術を紹介。 |
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12 |
「ブルーノ・ムナーリ展 : 偶然性と意図性の視覚コミュニケーション」(武蔵野美術大学美術資料図書館2階展示室、東京)。 |
1996 |
3 |
「MAC : Movimento Arte Concreta 1948-1958」(児玉画廊)。日本初のMACの展覧会。 |
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4 |
「マリオ・チェロリ : 夢見る力」(ふくやま美術館ほか)。 |
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4 |
「エンツォ・クッキ展」(セゾン美術館ほか)。日本初の本格的な回顧展。初期からの代表的な絵画、彫刻、素描など70点と、展覧会のための最新作12点を展示。 |
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6 |
「Pino Pascali(1935-1968) : Sculptures&Drawings」(アキライケダギャラリー、東京/田浦/名古屋)。3会場で開催。《Labbra rosse》《Mare》など彫刻5点と、ガッシュ30点を展示。 |
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8 |
「フィレンツェ・オペラ舞台画展 : ジョルジョ・デ・キリコからレナート・グットゥーゾまで」(高島屋アートギャラリー、東京)。フィレンツェ市立劇場が所有する、劇場のために美術家が制作したスケッチなどを展示。カゾラーティ、マッカリ、プランポリーニ、サヴィーニオ、シローニ、セヴェリーニ、ソッフィチなどを紹介。 |
1997 |
6 |
第47回ヴェネツィア・ビエンナーレ。テーマ「未来、現在、過去」。1967~1997年の3世代にわたる作家たちを展観。 |
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5 |
「マリノ・マリーニ展」(彫刻の森美術館ほか)。 |
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8 |
「ジュゼッペ・ペノーネ : 石の血管」(豊田市美術館)。ペノーネ自身によって設置されたインスタレーションと主要作品を展示。 |
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11 |
「ジャコモ・マンズー : 愛と平和展」(光と緑の美術館)。 |
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「イタリア美術 1945-1995 : 見えるものと見えないもの」(愛知県美術館ほか)。「40年代-50年代」「60年代-70年代」「80年代-90年代」の3章構成。26人約80点の作品で戦後の前衛美術の流れを紹介。 |
1998 |
9.30 |
ブルーノ・ムナーリ死去(ミラノ)。 |
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7 |
「ヴェナンツォ・クロチェッティ展」(横浜美術館ほか)。彫刻、素描約100点を展示。日本初の大回顧展。 |
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「Ambienti Sensibili スタジオ・アッズーロ : 触って踏んで声かけて―21世紀の映像神話展」(新津市美術館、新潟)。ミラノを拠点に活動するグループが4点のインタラクティブ・アートを日本初公開。 |
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10 |
「ジョルジョ・モランディ : 花と風景 : 静かなる時の流れのなかで」(東京都庭園美術館ほか)。 |
1999 |
6 |
第13回ローマ・クァドリエンナーレ。 |
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2 |
「彫刻の理想郷 : イタリア・チェレからの贈りもの」(神奈川県立美術館ほか)。フィレンツェ・ピストイア近郊チェレにある彫刻公園の環境芸術クレクションを模型やペーパーワークで紹介。 |
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4 |
「ファウスト・メロッティ展」(愛知県美術館)。日本初の回顧展。立体70点、陶器5点、素描30点。+[ノートを読む]
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2000年以降 |2001|2002|2003|2004|2005|2006|2007|2008|2009|
2000 |
4 |
「デペロの未来派芸術展」(東京都庭園美術館ほか)。未来派第2世代にあたる作家の日本初の回顧展。約130点を紹介。 |
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6 |
「アルベルト・ブッリ展」(豊田市美術館)。初期から晩年までを展観。 |
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9 |
「阿部展也 : Abe Nobuya 1913-1971」(新潟市美術館ほか)。 |
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11 |
「デ・キリコ展 : 終わりなき記憶の旅」(Bunkamuraザ・ミュージアム、東京ほか)。初期の「形而上絵画時代」に限定せず、デ・キリコの生涯と作品の全体像を紹介。 |
2001 |
6 |
第49回ヴェネツィア・ビエンナーレ。テーマ「Platea dell'Umanit`a」。総合コミッショナーにハラルド・ゼーマン。 |
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4 |
「スタジオ・アッズーロ《タンブーリ》 : 開かれたインタラクティヴ・アート」(NTTインターコミュニケーション・センター、東京)。新作と旧作の2点を展示。 |
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7 |
「イタリア彫刻の20世紀」(横浜美術館、神奈川ほか)。ロッソ、ヴィルト、ボッチョーニ、バッラ、マルティーニ、デ・キリコ、アントニエッタ・ラファエル、マファイ、レオンチッロ、フォンタナ、メロッティ、マストロヤンニ、コンサグラ、コッラ、ポモドーロ、チェーロリ、パスカーリ、ピストレットなどを展示。 |
2002 |
12 |
トレント・ロヴェレート近現代美術館(Museo d'Arte Moderna e Contemporanea di Trento e Rovereto)開館。通称MART。未来派の資料館を擁するほか、20世紀の前衛美術を数多く所蔵。 |
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4 |
「アフロ ブッリ フォンタナ : イタリア抽象絵画の巨匠」(ふくやま美術館ほか)。 |
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9 |
「20世紀イタリア美術」(東京都現代美術館ほか)。19世紀末の分割主義から現代作家まで約100点を紹介。 |
2003 |
2 |
ボスキ=ディ・ステファノ私邸美術館開館(ミラノ)。20世紀イタリア美術を中心に2000点以上を所蔵。 |
2004 |
12 |
「マルセル・デュシャンと二十世紀美術展」(国立国際美術館)。展覧会にあわせてシンポジウム「デュシャンと現代美術の保存・修復をめぐって」開催、講演者の一人としてマリオ・ペルニオーラが来日。 |
2005 |
6 |
第51回ヴェネツィア・ビエンナーレ。 |
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3 |
「アルテ・ポーヴェラ : 貧しい芸術」(豊田市美術館)。初期作品を含む約60点で運動の全体を示すと同時に、作家間・作品間の差異を明らかにすることでアルテ・ポーヴェラの多産性と「開かれ」に迫る。 |
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|
「Ciao!20世紀イタリア美術 : ふくやま美術館コレクションより」(八王子市夢美術館)。 |
2006 |
2 |
◆第20回冬季オリンピック開催(トリノ)。 |
2007 |
6 |
第52回ヴェネツィア・ビエンナーレ。 |
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12 |
「ブルーノ・ムナーリ展 : あの手この手」(板橋区立美術館、東京ほか)。 |
2008 |
6 |
第15回ローマ・クァドリエンナーレ。 |
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3 |
「マリオ・ジャコメッリ展 : 知られざる鬼才」(東京都写真美術館)。 |
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6 |
「永井敬二コレクションより : エンツォ・マーリ 100のプロジェット」(長崎県美術館)。 |
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7 |
「ジュゼッペ・ペノーネ展」(豊田市美術館)。2000年代の近作、新作を中心に展示。 |
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「長澤英俊 : オーロラに向かう所」(川越市立美術館/埼玉県立近代美術館ほか)。 |
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10.3 |
「イタリアの印象派 : マッキアイオーリ」(ふくやま美術館ほか)。 |
2010 |
6 |
「ブルーノ・ムナーリ展 : アートの楽しい見つけ方」(横須賀美術館、神奈川)。グラフィックワーク、オブジェ、プロダクトデザイン、本など約200点の作品と資料を展示。 |
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7 |
「ふくやま美術館コレクションによる20世紀イタリア美術展」(高岡市美術館、富山)。19世紀の画家フィリッポ・パリッツィからトランスアヴァングァルディアまで約100点を展示。 |
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― |
カステラーニが第22回高松宮殿下記念世界文化賞の絵画部門受賞。 |
2011 |
6 |
第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ。 |
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3.11 |
◇東日本大震災、福島第一原子力発電所事故。 |
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11 |
「セガンティーニ 光と山 : アルプスの画家」(損保ジャパン東郷青児美術館、東京ほか)。「アルプス三部作」ほか約60点を展示。 |
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― |
この年、4月から開催予定だった「ジョルジョ・モランディ展 : モランディとの対話―デ・キリコからフォンターナへ」(豊田市美術館ほか)が、3月11日の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の影響で中止となる。 |
2013 |
6 |
第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ。日本代表作家は田中功起、キュレーターは蔵屋美香。国別展示部門で特別表彰される。 |
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3 |
「ヴェナンツォ・クロチェッティ展」(彫刻の森美術館ほか)。 |
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9 |
「フィレンツェピッティ宮近代美術館コレクション トスカーナと近代絵画 : もうひとつのルネサンス」(損保ジャパン東郷青児美術館ほか)。 |
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10 |
「ブルーノ・ムナーリのファンタジア : 創造力ってなんだろう?」(ヴァンジ彫刻庭園美術館、静岡)。彫刻、グラフィックアート、プロダクトデザインなど約170点を展示。 |
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11 |
「建築の皮膚と体温 : イタリアモダンデザインの父、ジオ・ポンティの世界」(INAXライブミュージアム「土・どろんこ館」、愛知ほか)。ポンティのデザインによるタイルの再現や図面、スケッチなどを展示。 |
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― |
ピストレットが第25回高松宮殿下記念世界文化賞の絵画部門受賞。 |
2014 |
4 |
「動く!光る?魔法の芸術 キネティック・アート」(山梨県立美術館ほか)。展覧会名を変えて国内3館を巡回(「不思議な動きキネティック・アート展 : 動く・光る・目の錯覚」/損保ジャパン東郷青児美術館)。イタリアを中心とした1950~60年代のキネティック・アートを総合的に紹介。グルッポT、グルッポN、グルッポMID、ブルーノ・ムナーリらの作品を展示。 |
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6 |
「ジョルジョ・デ・キリコ展」(岩手県立美術館ほか)。パリ市立近代美術館の所蔵品を中心に約100点を展示。 |
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9 |
「ムサビのデザインⅣ 1980-1990’s : エットレ・ソットサスとヌオーヴォ・デザイン」(武蔵野美術大学美術館、東京)。 |
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11 |
「イエラ・マリ展 : 字のない絵本の世界」(板橋区立美術館)。 |
|
― |
ペノーネが第26回高松宮殿下記念世界文化賞の彫刻部門受賞。 |
2015 |
5 |
第56回ヴェネツィア・ビエンナーレ。 |
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5 |
◆「ミラノ国際博覧会」開幕。「地球に食料を、生命にエネルギー」をテーマに、約140の国と国際機関が参加。 |
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12 |
「モランディ展 : 終わりなき変奏」(兵庫県立美術館ほか)。日本では17年ぶりの回顧展。油彩、水彩、版画、素描など約100点を展示。 |
2016 |
10.14-15
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吾妻兼治郎死去(ミラノ)。 |
2017
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2.16 |
ヤニス・クネリス死去(ローマ) |
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3 |
「阿部展也 : 飽くなき越境者」(広島市現代美術館ほか)。 |
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4 |
「ブルーノ・ムナーリ: 子どもの心をもちつづけるということ」(神奈川県立近代美術館葉山)。日本初公開作品を含む約320点を展示。 |
【註】
- [*1] F・T・マリネッティ「未来派創立宣言」(1909)堤康徳訳、『未来派 FUTURISM 1909-1944』エンリコ・クリスポルティ、井関正昭監修、東京新聞、1992年、63頁。
- [*2] ウンベルト・ボッチョーニ「未来派彫刻技術宣言」(1912)片桐頼継訳、前掲書、122頁。
- [*3] ルイジ・ルッソロ「雑音の芸術 : 未来派宣言」(1913)細川周平訳、「特集・未来派 : モダニズムの総決算」『ユリイカ』、1985年12月、青土社、113‐114頁。
- [*4] ロベルト・ロンギ「未来派の画家たち」(1913)関和泉訳、『芸術論叢I : アッシジから未来派まで』岡田温司監訳、中央公論美術出版、1998年、3頁。
- [*5] ジョルジョ・デ・キリコ「われら形而上派」(1919)岩倉翔子訳、『デ・キリコによるデ・キリコ展』、毎日新聞社、1973年。
- [*6] 田之倉稔『ファシストを演じた人びと』、青土社、1990年、154頁。
- [*7] 鯖江秀樹『イタリア・ファシズムの芸術政治』、水声社、2011年、64頁。
- [*8] ファウスト・メロッティ「詩学宣言」(1935)拝戸雅彦訳、『イタリア美術 1945-1995 : 見えるものと見えないもの』愛知県美術館[ほか]、1997年、161頁。
- [*9] ロベルト・ロンギ「〈フィオーレ〉のモランディ」(1945)岡田温司訳、前掲書、186頁。
- [*10] 「白の宣言」(1946)『LUCIO FONTANA : Spatial Conseption』多摩美術大学美術参考資料館、1990年、96頁。
- [*11] 同展については以下を参照。ジョルジョ・デ・マルキス『アヴァンギャルド芸術論』若桑みどり訳、現代企画室、1992年、172‐174頁。
- [*12] 「ミリオラマ MIRIORAMA」瀧口修造訳、『コレクション瀧口修造I 幻想画家論 ヨーロッパ紀行1958 自らを語る』、みすず書房、1991年、375頁。
- [*13] ブッリの《袋(大)》ほか美術作品をめぐるスキャンダルについては以下を参照。Francesca Bonazzoli, "《Scandalosamente》 all' avanguardia: Oggi miti dell' arte, agli esordi furono derisi", Corriere della Sera, 2009-9-14, http://archiviostorico.corriere.it/2009/novembre/14/Scandalosamente_all_avanguardia_co_9_091114136.shtml, (accessed 2014-2-9).
- [*14] ピエロ・マンゾーニ「自由な次元」(1960)拝戸雅彦訳、『イタリア美術 1945-1995 : 見えるものと見えないもの』、前掲書、167‐168頁。
- [*15] 瀧口修造「MIRIORAMA 動く芸術」、前掲書、320頁。
- [*16] 針生一郎「ジュゼッペ=カポグロッシ」、『カポグロッシ』東京画廊、1963年。
- [*17] 峯村敏明「世界のなかのアルテ・ポーヴェラ」、『アール・ヴィヴァン』、13号、1984年7月、西武美術館、33頁。
- [*18] 中原佑介「空間の連続と無限」、『エンリコ カステラーニ』東京画廊、1968年。
- [*19] ジェルマーノ・チェラント「アルテ・ポーヴェラ」(1969)小田るな訳、『イタリア美術 1945-1995 : 見えるものと見えないもの』、前掲書、173‐174頁。
- [*20] 岡本太郎、『よみがえるロマネスク : マッシモ・カンピリ』フジテレビギャラリー、1973年。
- [*21] Joan M. Lukach, "Giorgio Morandi, 20th century modern : toward a better understanding of his art,1910 to 1943", in Giorgio Morandi, Des Moines Art Center, pp.19-20.
- [*22] アキーレ・ボニート・オリーヴァ「トランスアヴァンギャルディア/トランスアヴァンギャルド」(1982)南雄介訳、『イタリアン・ネオ・モダン
: ’80年代のアート&デザイン』ふくやま美術館、1989年、58頁。
イタリア近現代美術年表
cronologia dell'arte moderna e contemporanea italiana
(last-update : 2017-11-11)
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