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  1920年代
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1920  1 モジリアーニ死去(パリ)。享年35歳。
 3 文芸誌『地中海通信(Rete mediterranea)』創刊(フィレンツェ)。ソッフィチとパピーニが編集。「秩序への回帰」を謳う。ソッフィチはイタリア美術界におけるフランス主義に対抗して、地方的な伝統に接近する。
 4.15 第12回ヴェネツィア・ビエンナーレ。事務局長にピーカが就任。ゴッホ、セザンヌなど後期印象派の画家たちに加え、スーラ、シニャックなど新印象派をビエンナーレにおいて初めて紹介。
 ― フィリッポ・デ・ピシス、ローマに移住。
パラッツォ・レアーレが一般公開開始(ミラノ)。
◎『エスプリ・ヌーヴォー』創刊(パリ)。

 ― 木下秀一郎、普門暁らが「未来派美術協会」結成。

1921  3 「ヴァローリ・プラスティチ展」(ベルリン国立近代美術館)。マリオ・ブローリオが組織。国外で初のグループ展。ドレスデン、ハノーヴァー、ミュンヘンを巡回。
 3.31 「第1回ローマ・ビエンナーレ(la I Biennale romana)」(パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ)。ローマ首都移転50周年を記念して開始した国際展。コスタ、ファットーリ、プレヴィアーティの回顧展。
 4.8 「春のフィレンツェ展(La fiorentina Primaverile)」(パラッツォ・サンガッロ、フィレンツェ)。フィレンツェ美術協会主催。デ・キリコ、カッラ、モランディなどヴァローリ・プラスティチ周辺の作家をはじめ、約300人が展示。デ・キリコがカタログ序文でモランディを称賛。
 ― この頃から、シローニはイラストレーターとして日刊紙『イル・ポポロ・ディタリア』に協力するようになる(ミラノ)。1927年からは美術批評家として同紙に寄稿。
カッラ、アンドレ・ドランのモノグラフを『ヴァローリ・プラスティチ』に寄稿。形而上絵画の時代の最後期の作品である《海辺の松》を制作。
セヴェリーニ、『キュビスムから古典主義へ:コンパスと数の美学』刊行(パリ)。
ミラノ市立近代美術館(Galleria d'Arte moderna di Milano)開館。通称GAM。
◆ルイジ・ピランデルロ『作者を探す六人の登場人物』初演。

 6 東郷青児、マリネッティと出会う(ミラノ)。

1922  1 プランポリーニ企画による「セクション・ドール」の展覧会(ヴェネト通り、ローマ)。未来派とキュビスムの作家たちが展示。
 3 大規模な未来派展(ベルリン)。日本人作家では村山知義、永野芳光が出品。
 4.15 第13回ヴェネツィア・ビエンナーレ。中央館でモジリアーニ回顧展、アメリカの黒人彫刻の展示。
 4 「17・18世紀イタリア絵画展」(フィレンツェ)。ウーゴ・オイエッティ、リオネッロ・ヴェントゥーリらが企画。1920年代における17世紀絵画の再評価を象徴する展覧会となる。
 9 後の「ノヴェチェント・イタリアーノ(Novecent Italiano)」に繋がるグループが誕生(ミラノ)。メンバーは、アンセルモ・ブッチ、レオナルド・ドゥドレヴィッレ、アキッレ・フーニ、エミリオ・マレルバ、ピエロ・マルッシグ、ウバルド・オッピ、マリオ・シローニの7人。
 10.31 ◆ローマ進軍。ムッソリーニによるファシスト政権樹立。

1923  3.26 「ノヴェチェントの7人展」(ペーザロ画廊、ミラノ)。美術評論家マルゲリータ・サルファッティ企画。ムッソリーニがスピーチを行う。
 5 第1回国際装飾芸術展(モンツァ)。後のミラノ・トリエンナーレ。
「機械芸術宣言(il manifesto L'arte meccanica)」が『ノイ』で発表される。プランポリーニ、イーヴォ・パンナッジ、ヴィニーチョ・パラディーニが署名。
 9 第2回ローマ・ビエンナーレ。マンチーニ、サルトーリオ、イノチェンティらの回顧展。デ・キリコ、セヴェリーニ、フェラッツィ、ドンギなどが展示。フランス館でドガの彫刻70点を展示。
 ― この年、バッラが《Bal Tic Tac》を制作(ローマ)。のちに破棄。
反ファシスト運動の容疑でカゾラーティが逮捕される。

1924  4 第14回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ヴェントゥーリの推薦により、カゾラーティに一室が与えられる。マルゲリータ・サルファッティが企画展「ノヴェチェントの6人の画家」を開催。
 7 雑誌『イル・セルヴァッジョ(Il Selvaggio)』創刊。ミーノ・マッカリ、アンジェロ・ベンチーニ編集。1926年からフィレンツェに拠点を移す。ここから「郷土派(ストラパエーゼ)」が台頭し、田園都市の伝統を尊重する文芸潮流がおこる。
 10 デ・ピシス初個展(国立劇場緑の部屋、ローマ)。
◎アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」発表(パリ)。
 ― ◆教育映画連盟「LUCE」設立(ローマ)。

1925  1 ◆ムッソリーニがファシズム独裁宣言発表。
 3.1 第3回ローマ・ビエンナーレ。デ・キリコ、マルティーニ、未来派の作家たちが展示。そのほかシローニの紹介によるカッの展示。コローの回顧展。
 3 ◎フランツ・ロー『表現主義以後 : 魔術的リアリズム』刊行。新即物主義を理論化。
 4 「現代産業・装飾美術国際展覧会」(パリ)。「アール・デコ博」として知られる。イタリア代表としてバッラ、デペロ、プランポリーニが出品。バッラはタペストリーを展示して金賞受賞。
 5.1 ◆雑誌『イル・モンド』で反ファシストの知識人(クローチェ、モンターレなど)による声明文が発表される。
 6 ◎「新即物主義展」(マンハイム美術館)。
 11 「ジョヴァンニ・ファットーリ生誕100周年へのオマージュ展」(パラッツォ・ピッティ、フィレンツェ)。ファットーリの評価と歴史的位置付けをめぐり議論が沸騰。
◎第1回シュルレアリスム展(ピエール画廊、パリ)。デ・キリコの絵画がシュルレアリスムの先駆として展示される。
 ― デ・キリコとプランポリーニがパリに移住。

1926  2.15 「第1回ノヴェチェント・イタリアーノ展」(パラッツォ・デッラ・ペルマネンテ、ミラノ)。約120人の画家と彫刻家によるノヴェチェント派最大の展覧会が官費で開催される。ロッソ、デ・キリコ、カッラ、モランディ、カンピッリ、シローニ、マルティーニ、リチーニ、ニューディ、セヴェリーニ、モレッリ、デ・ピシス、カゾラーティ、未来派の作品を展示。ムッソリーニが開会式でスピーチ。+[引用を読む]
 3 デ・ピシス、パリに移住(~1939年)。デ・キリコの紹介により、パリで初の展覧会を行う。
 5 第15回ヴェネツィア・ビエンナーレ。フェリーチェ・カレーナとソッフィチの個展。マリネッティの企画によりビエンナーレで初めて未来派の一室が設けられる。未来派の部屋ではバッラ、ボッチョーニ、デペロ、ドットーリ、プランポリーニ、ルッソロ、タートの作品を展示。この回からビエンナーレを国が統制するようになる。
 10 ムッソリーニがペルージャの美術アカデミーで演説。ファシズム芸術の必要性を公言。+[引用を読む]
 11 文芸雑誌『ノヴェチェント(900)』創刊(~1929年)。文芸批評家のボンテンペッリ編集。ここから「都会派(ストラチッタ)」が興隆し、マッカリ、ロンガネージらの郷土派(ストラパエーゼ)と対立する傾向を示す。
 ― この年、イタリア合理主義建築の組織「グルッポ7(Gruppo 7)」結成。ル・コルビュジェとバウハウスの理論から影響を受け、ジュゼッペ・テラーニなど若き建築家が集う。
デ・キリコがシュルレアリストのグループと決別。
ヴェントゥーリ『プリミティブの趣味』刊行。
◎ジャン・コクトー「秩序への呼びかけ(Le rappel a l'ordre)」発表。
◆この頃から国家による言論統制が本格化。

1927  2 「イル・セルヴァッジョ」のグループ展(イル・セルヴァッジョの部屋、フィレンツェ)。
 11 マリオ・マファイとアントニエッタ・ラファエルがローマのカヴール通りに転居。シピオーネ、ウンガレッティ、ベッカリアなど、芸術家や文学者たちが集う場となる。ここから「ローマ派(Scuola Romana)」と呼ばれる画家たちが活躍。
 ― ノヴェチェント・イタリアーノの展覧会がハンブルグとアムステルダムを巡回。
ヴァローリ・プラスティチ出版より単行本『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』刊行。ロベルト・ロンギのテキストを掲載。ピエロの再評価に貢献する。

1928  1.15 雑誌『ドムス(Domus)』創刊。建築家ジオ・ポンティが編集。建築やデザインなどを扱う。
 2 パリに住むイタリア人画家の展覧会(サロン・デ・レスカリエ、パリ)。カンピッリ、セヴェリーニ、デ・ピシス、メンツィオらが展示。
 3.31 ロッソ死去(ミラノ)。
 5 第16回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ヴィットリオ・エマヌエーレ3世とムッソリーニが調印した法律により、ビエンナーレの組織が自治機関(独立法人)となる。ファシスト体制下で運営委員会が組織される。
 ― カンピッリ、ローマを訪問。エトルリア美術に強い感銘を受ける。
デペロ、NYに移住(~1930年)。
ルチオ・フォンタナ、アルゼンチンからミラノに移住。
デ・キリコ、小説『エブドメロス』刊行。
この年からイタリア合理主義建築運動「MIAR(ミアール)」による展覧会が続けて開催される。
建築・デザインの雑誌『ラ・カーザ・ベッラ(La casa bella)』創刊。グイド・モランゴーニ編集。後に『カーザベッラ(Casabella)』に誌名変更。

1929  1.12 「トリノの6人の画家(Sei pittori di Torino)」による最初の展覧会(グリエルミ画廊)。メンバーは、ジェシー・ボズウェル、ジジ・ケッサ、ニコラ・ガランテ、カルロ・レーヴィ、フランチェスコ・メンツィオ、エンリコ・パウルッチ。美術史家リオネッロ・ヴェントゥーリと批評家エドアルド・ペルシコが主導となり、この年からジェノバ、トリノ、ミラノなど各地で展覧会を開催。ノヴェチェントが推奨する古典主義に抗し、印象主義の様式を導入。
 1.21 「ローマ派」のグループ展(パラッツォ・ドーリア、ローマ)。シピオーネ、マファイ、ラファエル、ディ・コッコ、チェラッキーニ、ジュゼッペ・カポグロッシらが展示。カポグロッシは後に抽象絵画に転向。
 2 ◆ラテラーノ条約締結。国家と教会の和解が成立。
 3.2 「第2回ノヴェチェント・イタリアーノ展」(パラッツォ・デッラ・ペルマネンテ、ミラノ)。サルファッティ企画。ポンペオ・ボッラ、カッラ、トージ、シローニ、マリオ・ヴェラーニ・マルキ、カンピッリ、マルッシグ、ロザイ、フーニが展示。
 5 カンピッリ初個展(ジャンヌ・ビュシェ画廊、パリ)。
 9.22 マリネッティが『ガゼッタ・デル・ポポロ』誌上で「航空絵画」の原理を発表。のちに「未来派航空絵画宣言」として完成され、バッラ、ベネデッタ、デペロ、ドットーリ、フィッリア、プランポリーニ、ロッソ、ソメンツィ、タートが署名。
 11 ◎ニューヨーク近代美術館開館。
 ― ロンギがマファイの家に集う一派を「カヴール通り派(Scuola di via cavour)」と命名。1931年頃まで活動。
◎「新即物主義展」(アムステルダム市立美術館)。ノイエ・ザッハリッヒカイトという言葉がオランダで知られるきっかけとなる。
◇世界恐慌。

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