1850-55頃 | ― | セラフィーノ・デ・ティヴォリ、ジョヴァンニ・ファットーリ、テレマコ・シニョリーニ、ヴィンチェンツォ・カビアンカなど、後に「マッキアイオーリ派(Macchiaioli)」と呼ばれる画家たちがカフェ・ミケランジェロの常連となり、芸術についての議論を重ねるようになる(フィレンツェ)。 |
1855 | 6 | デ・ティヴォリがパリ万国博覧会を訪問。バルビゾン派の作品を知り、仲間の画家たちにその情報を伝える。 |
1860 |
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この頃からボヘミアンによる前衛文学運動「スカピリアトゥーラ(蓬髪派)(Scapigliatura)」が興隆(ミラノ)。美術や音楽の領域にもまたがる総合芸術運動となる。 |
◆イタリア国家統一。 |
1862 | ― | フィレンツェの新聞『ガゼッタ・デル・ポポロ』が、カフェ・ミケランジェロに集う画家たちのグループ展出品作について、「マッキアイオーリ」の呼称を使う。 |
1863 | ― | この頃から「レジーナ派(Scuola di Resina)」が興隆(ナポリ)。反アカデミズムを掲げる画家たちが、現実からの描写や光と色彩の関係性を探究。 |
1866 | ― | アントニオ・フォンタネージ、フィレンツェを訪問。クリスティアーノ・バンティを通じてマッキアイオーリ派の影響を受ける。 |
1871 | 7 | ◆ローマに首都移転。 |
1873 | 5 | ◎ウィーン万国博覧会。日本初参加。 |
1874 | 4 |
◎第1回印象派展(パリ)。ドガの誘いにより、ジュゼッペ・デ・ニッティスが出品。 |
1876 |
― |
フォンタネージ来日。11月から工部美術学校で教鞭を執る(2年後に帰国)。同校ではヴィンチェンツォ・ラグーザが彫刻を、ヴィンチェンツォ・カペレッティが装飾図案などを教える。 |
1878 | ― | ◆イタリア王国の第2代国王であるウンベルトI世が即位。 |
1879 | 4 | ◎第4回印象派展。フェデリコ・ザンドメネギが初出品。 |
1880 | ― | ファットーリ、フィレンツェ美術学校の教授に就任。 |
1882 | 4.17 | フォンタネージ死去(トリノ)。 |
1886 |
― | ジョヴァンニ・セガンティーニ、《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》で分割主義の描法を初めて試みる。 |
5 | ◎第8回印象派展。スーラが《グランド・ジャット島の日曜日の午後》出品。 |
1887 | ― | ヴェネツィア・ビエンナーレの前身である「イタリア美術展」開催(ジャルディーニ・ディ・カステッロ)。 |
1888 | ― | 美術史家バーナード・ベレンソン、フィレンツェに移住。 |
1889 | ― | メダルド・ロッソ、パリに移住。 |
1891 | 5 | 第1回ブレラ・トリエンナーレ(ミラノ)。セガンティーニ《2人の母》、ガエターノ・プレヴィアーティ《母性》などが展示され、分割主義が公に認知される。 |
1892 | ― | 美術学校から独立したブレラ絵画館の一般公開がはじまる(ミラノ)。 |
1894 | ― | ヴィットリオ・ピーカによる著書『極東の美術』が刊行される。日本美術を紹介。 |
1895 | 1 | 『エンポリウム(Emporium)』創刊(ベルガモ)。文芸批評家・美術批評家のヴィットリオ・ピーカが編集。「学術・文化・科学・バラエティの図版入り月刊誌」と銘打たれる。初期は象徴主義に傾倒し、ラファエル前派などを紹介。 |
4 | 「第1回ヴェネツィア国際美術展(la I Esposizione internazionale d'Arte della citt`a di Venezia)」(ジャルディーニ・ディ・カステッロ)。ウンベルトI世とマルゲリータ王妃臨席のもと開会式が行なわれる。15カ国285作家が参加。後援委員にギュスターヴ・モロー、ピュヴィス・シャバンヌ、バーン・ジョーンズなど。フランチェスコ・パオロ・ミケッティが最高位の賞を獲得。(※以降、「ヴェネツィア・ビエンナーレ」と表記) |
1896 | ― | ジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード、《第四階級》の制作に着手。 |
1897 | 4 | 第2回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ヴィットリオ・ピーカの後援で印象派と後期印象派を紹介。モネ、ルノアール、ロダンらが展示。 |
1899 | 4 | 第3回ヴェネツィア・ビエンナーレ。「コローとバルビゾン派」など企画展を開催。 |
9.28 | セガンティーニ、スイスのエンガディン地方で死去。享年41歳。 |
― | この年、ウンベルト・ボッチョーニとジーノ・セヴェリーニがローマに移住。 |