1910 | 1 | 「未来派の夕べ」(ロセッティ大劇場、トリエステ)。 |
プレヴィアーティの回顧展(ミラノ)。ボッチョーニが観賞。 |
2.11 | 「未来派画家宣言」が起草される。ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ルイジ・ルッソロ、ジーノ・セヴェリーニ、ジャコモ・バッラが署名。このとき、マリオ・シローニも運動に勧誘されるが、署名を断る。 |
3.8 | 「未来派の夕べ」(キアレッラ劇場、トリノ)。「未来派画家宣言」が朗読される。 |
4.11 | 「未来派絵画技術宣言」が起草される。ボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、セヴェリーニが署名。 |
4 | 第9回ヴェネツィア・ビエンナーレ。クリムト、ルノアールに一室が与えられる。クールベの回顧展。マリネッティによるボッチョーニ展が論争を引き起こす。 |
「第1回イタリアにおける印象派展」(フィレンツェ)。『ラ・ヴォーチェ』主催、ソッフィチ企画。ドガ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、モネなどを紹介。 |
7.8 | ヴェネツィアのサン・マルコ広場でマリネッティ、ボッチョーニ、カッラ、ルッソロが街頭演説。「伝統主義者ヴェネツィアに反対する」(4月27日付)のビラを撒く。 |
7 | ボッチョーニ、未来派の画家として初の個展(カ・ペーザロ画廊、ヴェネツィア)。42点を展示。 |
10.11 | プラテッラが「未来派音楽家宣言」を起草。 |
― | アルベルト・サヴィーニオ、パリに滞在。 |
この年、未来派宣言がドイツ、フランス、ロシア、アメリカで翻訳される。 |
◎カンディンスキー、初の抽象絵画を手掛ける。 |
1911 | 4 | 「自由芸術展」(リコルディ・パヴィリオン、ミラノ)。ボッチョーニ、カッラ、ルッソロなどの未来派絵画を展示。会期中、観客によってボッチョーニの《哄笑》が傷つけられる。 |
6 | 『ラ・ヴォーチェ』でソッフィチが未来派の展覧会を酷評する。同月、マリネッティ、カッラ、ボッチョーニがフィレンツェのカフェにいたソッフィチを襲撃する事件が起きる。 |
7 | デ・キリコ、家族とともにトリノを訪問。その後、パリに転居。 |
10 | ボッチョーニとカッラ、パリに滞在。アポリネール、ピカソと知り合う。 |
― | ◎デュシャン《階段を降りる裸体》制作。 |
1912 | 2.5 | 「イタリア未来派の画家たち」(ベルネーム・ジュヌ画廊、パリ)。バッラ、ボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、セヴェリーニが展示。ロンドン、ベルリン、ブリュッセルを巡回。 |
4.11 | ボッチョーニが「未来派彫刻技術宣言」を起草。+[引用を読む] |
4 | 第10回ヴェネツィア・ビエンナーレ。 |
― | 秋、デ・キリコがサロン・ドートンヌに初出品(パリ)。《信託の謎》《ある秋の午後の謎》を展示。 |
ベネデット・クローチェ『美学要綱』刊行。 |
バッラ《鎖につながれた犬のダイナミズム》。 |
◎カンディンスキー『芸術における精神的なもの』刊行。 |
1913 | 1.1 | 『ラチェルバ(Lacerba)』創刊(フィレンツェ)。ジョヴァンニ・パピーニとソッフィチが編集。主な寄稿者は、ボッチョーニ、カッラ、ソッフィチ、ルッソロ、パラッツェスキ。当初は未来派の思想の普及に貢献。 |
1 | 「第1回国際分離派展(Prima Esposizione Internazionale d'Arte della Secessione)」(パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ、ローマ)。フェリーチェ・カレーナ、フェリーチェ・カゾラーティ、プリニオ・ノメッリーニらが展示。イタリア人作家以外では、マティス、ピサロ、ロダンなど。 |
2 | 「第1回未来派絵画展」(コンスタンツィ劇場、ローマ)。ボッチョーニ、バッラ、カッラ、ソッフィチ、ルッソロ、セヴェリーニが展示。 |
3.11 | ルッソロが宣言「雑音の芸術」を起草。+[引用を読む] |
3 | デ・キリコがサロン・デ・アンダパンダンに出品(パリ)。ピカソとアポリネールに称賛される。 |
4 | セヴェリーニ個展(マールボロ画廊、ロンドン)。 |
ロベルト・ロンギ、「未来派の画家たち」を『ラ・ヴォーチェ』に寄稿。+[引用を読む] |
5 | ルッソロとウーゴ・ピアッティが騒音楽器「イントナルモーリ」を発明。 |
6.20 | ボッチョーニの彫刻展(ラ・ボエシー画廊、パリ)。《壜の空間への展開》《空間における連続性の唯一の形態》などを展示。ロンドン、ベルリン、ブリュッセル、アムステルダムを巡回。 |
6.29 | アポリネール、「反伝統-未来派(L’Antitradition Futuriste)」を『ラチェルバ』に寄稿。 |
6 | アントン・ジューリオ・ブラガリアによる著書『未来派のフォトダイナミズモ』が刊行される。 |
◎アポリネールによる著書『キュビズムの画家たち』が刊行される。ドローネーの絵画に対し、「オルフィスム」と命名。 |
11.30 | 『ラチェルバ』主催による未来派作品展(ゴネッリ画廊、フィレンツェ) 。バッラ、ボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、セヴェリーニ、ソッフィチが展示。 |
12.6 | スプロヴィエーリ画廊開廊(ローマ)。未来派の作品を常設展示。最初の展覧会はボッチョーニ彫刻展。 |
12.12 | 「未来派の夕べ」(ヴェルディ劇場、フィレンツェ)。マリネッティ、ソッフィチ、パピーニ、ボッチョーニ、パラッツェスキが参加。 |
― | この年、オットーネ・ロザイ、シローニが未来派に加わる。 |
ボッチョーニ《空間における連続性の唯一の形態》。 |
セヴェリーニが宣言「クロモフォニア : 音の色(cromofonia : Il colore dei suoni)」発表。カンディンスキーの理論を基に執筆。 |
1914 | 3.21-22 | リッカルド・バッケッリ、オズヴァルド・リチーニ、ジョルジョ・モランディらが一晩限りの展覧会を開催(ホテル・バリオーニ、ボローニャ)。 |
3 | 「第2回国際分離派展」(パラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ)。ロッシ、アルトゥーロ・マルティーニ、ジョルジョ・モランディらが展示。イタリア人以外ではマティス、セザンヌの作品を展示。 |
4.3 | 「第1回国際自由未来派展」(スプロヴィエーリ画廊)。カンディンスキー、アーキペンコ、マリネッティ、カンジェッロ、バッラ、マルティーニ、プランポリーニ、ロッシ、シローニ、デペロ、モランディなどが展示。 |
4 | 第11回ヴェネツィア・ビエンナーレ。ジュゼッペ・デ・ニッティスの大回顧展。ザンドメニギ、ティート、サルトーリオの個展。イタリアの分割主義の紹介に一室が与えられる。 |
◎ヴォーティシズムの機関紙『ブラスト(Blast)』創刊(ロンドン)。 |
◇第一次世界大戦開戦。 |
8 | アントニオ・サンテリアによる「未来派建築宣言」が『ラチェルバ』に掲載される。 |
11.15 | ベニート・ムッソリーニが日刊紙『イル・ポポロ・ディタリア(Il Popolo d'Italia)』創刊(ミラノ)。 |
― | ロベルト・ロンギが「ピエロ・ディ・フランチェスキとヴェネツィア絵画の展開」を雑誌『ラルテ(L'arte)』に寄稿。 |
年末から、セヴェリーニが「戦争絵画」のシリーズを制作(~1916年1月)。 |
アルベルト・サヴィーニオが滞在先のパリで執筆した演劇「半死の歌」が上演され、デ・キリコにマネキン人形のインスピレーションを与える。 |
この年、フォルトゥナート・デペロが宣言「造形的複合体-未来派自由遊戯-人工的生」発表。「造形的複合体(コンプレッソ・プラスティコ)」の作品を構想する。+[ノートを読む] |
アキーレ・フーニが未来派に参加。 |
◎ピカソ、パピエ・コレの作品を手掛ける(パリ)。 |
1915 | 2 | 『ラチェルバ』が未来派からの離脱を表明。ソッフィチは未来派から具象画へ転向。 |
3.11 | バッラとデペロが「未来派による宇宙の再構築宣言(Ricostruzione futurista dell'universo)」を起草。 |
3 | ◇イタリアが三国同盟を破棄、5月にオーストリアに宣戦布告。 |
5 | エンリコ・プランポリーニ、最初の宣言「モーター雑音の絶対的構造」発表。 |
5.22 | 『ラチェルバ』の最終号刊行。 |
12 | ◎「最後の未来派絵画展 0-10」(サンクトペテルブルク)。 |
― | 「第3回国際分離派展」(ローマ)。カゾラーティ、ロレンツォ・ヴィアーニらが展示。 |
デ・キリコ、兵役でフェッラーラに派遣されるが、神経抑鬱症のためフェラーラの陸軍病院に一時入院。 |
この年、ボッチョーニ、フーニ、マリネッティ、ルッソロ、サンテリアらが戦地に赴く。パルマに召集されたモランディは間もなく体調を崩して帰郷。 |
1916 | 4.20 | デペロ個展(ウンベルト通り20番地、ローマ)。絵画、素描、造形複合体(コンプレッソ・プラスティコ)、舞台衣装、タペストリーなど約200点を展示。 |
8.17 | ボッチョーニ、ヴェローナの戦場での落馬が原因となり死去。享年33歳。 |
10.10 | サンテリアがオーストリアとの戦争により戦死。享年28歳。 |
12 | ボッチョーニ回顧展(パラッツォ・コーヴァ、ミラノ)。 |
― | この年、カッラが未来派を離脱。一方、『ラ・ヴォーチェ』に「ジョットについての談話」(3月31日付)、「構成者パオロ・ウッチェルロ」(9月30日付)を寄稿。古典回帰の傾向を示す《酔いどれ紳士》を制作。 |
セヴェリーニ、ローマでトリスタン・ツァラと出会う。チューリヒでダダイストの展覧会にも参加。 |
第一次世界大戦のため1916年と1918年のヴェネツィア・ビエンナーレは中止となる。 |
◎「ダダイズム」の興隆(チューリヒ)。 |
― | 東郷青児《パラソルをさせる女》。 |
1917 | 1-春頃 | フェラーラで治療を受けていたデ・キリコが、同じ病院に収容されていたカッラと出会う。サヴィーニオ、デ・ピシスも加わり、芸術について議論。「形而上絵画」のグループが誕生。 |
6 | 雑誌『ノイ(Noi)』創刊。プランポリーニとビーノ・サンミナテッリが編集。ヨーロッパの前衛美術を広く扱い、デ・キリコ、ツァラ、未来派の画家たちが寄稿。イタリアにおけるダダイズム普及にも貢献する。 |
11 | ◇ロシア革命。 |
― | ◎ピエト・モンドリアン、テオ・ファン・ドゥースブルフらが『デ・ステイル』創刊(オランダ)。 |
◎マルセル・デュシャンの《泉》がアンデパンダン展で出品拒否される(NY)。 |
1918 | 3.15 | 文芸雑誌『ラ・ラッコルタ(La Raccolta)』創刊(ボローニャ)。ジュゼッペ・ライモンディ編集。バッケッリ、カルダレッリなどの詩人・作家のほか、アポリネール、ヤコブ、ツァラなどヨーロッパの前衛文学を広く扱う。ライモンディはモランディの仕事に関心を持つ。 |
4.15 | デペロとジルベール・クラヴェルの共同制作による人形劇「造形的バレエ」上演(ピッコリ劇場、ローマ)。 |
10 | バッラ個展(カーサ・ダルテ・ブラガリア、ローマ)。 |
11.9 | ◎アポリネール、戦場で負った傷がもとで死去(パリ)。享年38歳。 |
11.15 | 雑誌『ヴァローリ・プラスティチ(Valori Plastici)』創刊(ローマ)。マリオ・ブローリオ編集。カッラとソッフィチが協力。その他の寄稿者に、デ・キリコ、サヴィーニオなど。伝統な様式や過去の巨匠に倣い、「秩序への回帰」を旗印に掲げる。国際的に流通し、日本の丸善でも販売される。 |
11 | デ・キリコ、ローマに移住。 |
◇第一次世界大戦終結。 |
― | この頃から未来派はムッソリーニの思想に接近しはじめる。 |
モランディ、形而上絵画風の作品を制作(~1919年)。 |
◎オザンファン、ジャンヌレ『キュビスム以後』刊行。 |
1919 | 2 | デ・キリコ個展(カーサ・ダルテ・ブラガリア)。イタリアで初。ロンギが「整形外科学の神へ」を『イル・テンポ』に寄稿、展覧会を酷評する。同月、デ・キリコは「われら形而上派」をローマの雑誌『今日の時評(Cronache d'attualit`a)』に寄稿。+[引用を読む] |
3 | ◆ムッソリーニが「戦闘者ファッシ」を結成(ミラノ)。 |
4 | 月刊文学誌『ラ・ロンダ(La Ronda)』創刊(ローマ)。リッカルド・バッケッリ編集。スパディーニ、カッラなどが寄稿。 |
8 | 『デ・ステイル』10号でサンテリアの作品と宣言を紹介。 |
10 | デペロの「未来派の家」設立(ロヴェレート)。 |
11 | デ・キリコ、「メティエへの回帰」を『ヴァローリ・プラスティチ』で発表。ローマに移住し、形而上絵画の時代も収束に向かう。 |
― | この年、カッラの《ロトの娘》図版が『ヴァローリ・プラスティチ』に掲載される。カッラは同誌や『イル・ポポロ・ディタリア』に寄稿するほか、著書『形而上絵画(La Pittura Metafisica)』を刊行。 |
マッシモ・カンピッリ、パリに移住。 |